第2回 左足の異変

家族でテニス

高桑さきは1992年5月、埼玉県で生まれた。エンジニアである父、きいち(54)の転勤に伴い、幼稚園は滋賀県で過ごした。小1で埼玉県へ移り、小4でシンガポールへ引っ越した。両親はそろって大のテニス好き。特に父は高校・大学を通じてテニスに熱中し、コーチをして学費や生活費を稼ぐほどの腕前だった。シンガポールでは自宅アパートメントにコートが付設されていた。さきは、父、母洋子(56)、三つ上の姉、きえ(25歳)とともに一家4人でテニスをするのが何よりの楽しみだった。2年後、一家は埼玉県深谷市に戻った。

赤ん坊のころの高桑さき(左)と、寄り添うように寝そべる姉のきえ(右)

4度の手術

さきが左足の異変に気づいたのは小6年の秋だった。深谷市内の全小学校が集う合同運動会で、自校の代表に選ばれた。徒競走など4種目につき、各小学校でタイムの上位者を選ぶのだが、さきは4種目のすべてで自校トップの記録を出した。1人1種目しか出場できないのが決まりだったから、競技をハードルに絞って臨むことになった。ある日、ハードルの練習中、左足に痛みを覚えた。軽いねんざかと思ったが、痛みが引かない。地元のクリニックで診てもらうと医師は「骨肉腫の疑いがある」と言う。ひざ下の部分の骨に腫瘍(しゅよう)ができているという見立てだった。悪性か良性かすぐにはわからない。悪性ならがんである。最初の外科手術は小6の12月、医師は「良性らしい。卒業式までには歩けるようになる」と言う。しかし一向に痛みがひかない。中一の5月から2度の手術を受ける。「悪性」であることがはっきりして、最後となる4度目の大手術で、さきは左足をひざの下から失った。

駐車場で三輪のキックスケーターをこぐ幼いころの高桑さき

運動の大好きなさきになぜ神様はこんなむごい運命を与えるのか。家族のだれもが答えの出ない悲しみに沈んだ。手術の後、さきは1年半にわたって抗がん剤治療を受けた。前橋市の群馬大学医学部付属病院に1週間入院してつらい治療に耐え、次の1週間は病室で体力を取り戻し、その次の1週だけ中学へ通うという日々を送った。食欲が消え、水分を取ることもおっくうになった。抗がん剤の副作用である。学校もつらくなった。半月も休むとクラスの話題は変わってしまう。髪が抜け、松葉づえをついて教室に入ると、クラスメートが戸惑うのが見えた。さきとどう接してよいのか、迎える同級生たちも分からなかったのだ。とりわけ小学校まで運動に秀で快活だったさきにとって、クラス内で周囲から敬遠するような視線を浴びること自体、耐えがたい苦痛だった。

そして現在。競技用の義足でトラックを歩く高桑さき選手

夕方うつむき加減で下校してくるさきを見て、母親の洋子は「無理して通学しなくていいよ」「転校してもいいのよ」と話しかけた。さきはしかし耐えぬこうとする。「私はいいの」「大丈夫だから」洋子は毎日、さきを車に乗せ、中学校の正門まで送った。さきは「ここで降りる」と言ってドアを開ける。左足を引きずらないフリをしながら校舎へ向かう。背中が見えなくなるまで洋子はひとり運転席で見守った。「心配しなくていいよさき。私が一生ずっと送り迎えしてあげる。私があなたの左足になってあげる」と心に誓った。(特別編集委員・山中トシヒロ

=敬称略