第3回 二度目の”初めて”
一冊の本
高桑早生は中1の夏、左足を切断する手術を受けた。群馬大学付属病院(前橋市)での手術は朝一番に始まり昼すぎまで続いた。手術ランプの消えるのを待つ間、母親の洋子は廊下で1冊の本に意識を注いだ。パラリンピック走り幅跳びの第一人者、佐藤真海の著書「ラッキーガール」だった。

また歩ける?
佐藤は日本を代表するパラリンピアンである。のちに2020年東京五輪パラリンピックの実現に向けて誘致活動の第一線に立ったほか、新国立競技場の新築問題では担当大臣にスポーツ界の要望をとりまとめて要請するなどすっかり有名になる。しかし、早生が手術を受けるころ、高桑家のだれも知らない名前だった。同じ病棟で知り合った同じ骨肉腫患者の母親から「佐藤真海も骨肉腫で足を切断した人。早生ちゃん、興味があれば手術後に読んだらといいと思う」と贈られた一冊だった。洋子は本を開くと、勇気の出そうなページを探しながら読んだ。気弱になりそうなページは要らない。元気のわきそうなことだけを手術後、早生に伝えようと思ったからだ。手術が済んだ。さっそく本のことを話した。早生は短く答えた。「私もまた歩けるようになるのかな」。パラリンピックに出ることはもちろん、自分が歩く姿すらもう思い浮かべることができなくなっていた。一生、松葉づえを使わざるを得ない早生のことを思い、両親は新築予定だった自宅の図面を障がい者用に設計変更していた。そんな時、洋子は群馬大学のリハビリ担当医のひと言でわれにかえった。「お母さん、早生ちゃんはずっと松葉づえに頼る生活にはなりませんよ。義足に慣れれば、通学もできる。高校や大学へも行ける。就職も結婚でもできるんですよ」

小走りだって
同じころ、早生は早生で、真っ暗闇のように感じていた中学校生活に自力でひと筋の希望を見いだしていた。義足をつけてみると、とぼとぼながら歩けるではないか。しかも慣れてくるとスピードも出せる。ソフトテニス部のコートに出てみると、前方向へなら小走りだってできると知った。早生が着けていたのは、パラリンピックの大会で近年おなじみになったJの字の形をした競技用義足ではない。日常生活用の義足だった。走ることは想定されていない。しかもまだ試作段階の仮の義足だった。だれに教わったわけでもないのに、早生は左右の大腿(だいたい)筋を使い分けて巧みにバランスをとり、まっすぐに駆けぬけてみせた。

卒業文集
もともとの天分もあるだろう。中3になると体育祭で75メートルもの距離を完走して、見守る教師や同級生たちを感嘆させている。中学の卒業文集に早生は次の作文を寄せた。運命を切りひらくとはこういうことなのかと胸が熱くなる。ぜひ全文をご紹介したい。(特別編集委員・山中季広)

二度目の“初めて走った日”
高桑早生
私にとって“初めて走った日”は二回ある。一回目は、覚えていない。それくらい小さいとき。二回目は、中二のころ。義足になって初めて走った。小走りから始まって、いつの間にか五十メートル走れるようになった。走れるようになって、私は体育祭に参加させてもらえることになった。私が参加したのは、大縄と全員リレー。大縄は最後まで飛ぶことができなかったけど、全員リレーは七十五メートル全力で走った。まだ練習用の仮義足だったのに、走った。いろんな人を驚かせてしまったのを覚えている。たくさんの人の協力のおかげで完走できた七十五メートル。私は、この日のことを一生忘れないだろう。そのころの私は、自分の限界というものがわからなかった。ただ、みんなと同じようにできることがうれしくて、いろんなことに挑戦した。全てにおいて全力疾走だった。その気持ちを忘れないで、これからも走り続けたいと思う。