第4回 若きコーチと
勝負できる
高桑早生が陸上を始めたのは高校1年だ。決して早くはない。家族で親しんだテニスを続けようかとも迷ったが、テニスにはひとつ義足使用者には克服しづらい点があった。欠かせない横方向の動きが、義足ではひどくむずかしいからだ。その点、陸上短距離走は克服しやすかった。前方向への動きだけで勝負できる。しかも同い年の健常者と並んで走ってみて、自分のスピードに自分で驚いた。義足ながら100メートルを15秒台で走りきることができた。高校の陸上部はいごこちが良かった。一般の部員と同じように練習し、いっしょに遠征できることが素直にうれしかった。

二人の挑戦
高1の秋、大分市で開かれた国体に出場した。高2の秋には東京であったアジア・パラユースという国際大会に挑んだ。早生は100メートルと走り幅跳びにエントリーし、何とその2種目とも金メダルを獲得してしまう。早生が初めての本格的な指導者と出会ったのはその年だ。埼玉大学でスポーツを専攻していた大学院生の高野大樹(26)である。パラ陸上の埼玉県代表を率いるコーチだった。そのチームに早生もいた。高野自身、パラリンピックの競技経験はない。パラリンピック選手を指導した経験もない。だが早生の素質と研究熱心さにはピンとくるものがあった。伸びしろがまだ相当あるように見えた。パラリンピック選手の指導方法が確立していないのなら、自分がやってみたいとも思った。早生の走りを動画に収め、動作感を尋ねては記録する生活が始まった。
ゾーンに入る
去年秋、韓国・仁川であったアジアパラリンピックには、高野も同行した。追い風参考ながら、13秒38を出したあのレースだ。「あの大会では彼女は最高に調子が良かった。あのコンディションなら風がなくても目標だった13秒59はまちがいなく出ていた」と高野は断言する。陸上の世界に「ゾーンに入る」という言葉がある。自分でも分からないまま体が思うままに動いて苦もなく自己ベストを出すような理想的な状態を指す。「仁川での彼女はまちがいなくゾーンに入っていた。あれはまぐれではないんです」何と何の条件がそろうと早生が着実に「ゾーン」に入れるのか、コーチである高野はそれを懸命に考えている。それが解明できれば、早生がいま目標と格闘している100メートル13秒5台は容易に達成できるはずである。

高野は早生をこう評する。「メンタルな部分では抜群に安定した選手。練習不足だからといってレース前に弱気にならない。やけを起こすこともない。ケガをした時などは、開き直ってたっぷり休む勇気がある」。一方で「しっかり者を演じようと思うのか、つらい時に葛藤を内にため込んでしまう傾向がある」とも言う。

研究は続く
早生の劇的な記録向上を研究対象として、高野は3年前、修士論文を書き上げた。題は「義足スプリント走の疾走フォームに関する発生運動学的研究」。健足と義足のストライドは同じでなければならないのか、義足が接地後に反動で高く上がりすぎるのをどう抑えたらよいのか。早生の指導を通じて見えた発見を科学的に分析した。これで修士号を得た高野は、埼玉県立の定時制高校で教職に就いた。今も土曜と日曜は早生のコーチングを続ける。(特別編集委員・山中季広)