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第6回 笛が鳴ったら

冬の成果

名前を呼ばれ、笛が鳴る。いつもと同じように胸に手をあて、深く息を吸い込む。鍛え上げられた肩を上下させ、一呼吸置くと、スタート台に上がった。見えない。だが、一瞬の迷いも、恐怖心も見せず、誰よりも力強く飛び込む。それが全盲スイマー、木村敬一(25)の強さだ。

リオデジャネイロ・パラリンピック開幕まで、あと半年と迫った3月6日。リオのパラリンピック水泳の日本代表候補を選ぶ最終選考会でも、木村は勢いよく飛び込んだ。そして、メダルを狙える好記録を連発。日本代表のエースとして存在感を見せつけた。木村がリオ大会に競泳界で1人だけもっとも早く出場が内定したのは昨年7月。一番輝くメダルを目指してこの冬に取り組んできた練習の成果が出た。出場したのは、3種目。

100メートルバタフライ
1分1秒61
自己ベストでアジア記録、日本記録を更新
100メートル自由形
59秒56
自己ベストで日本記録を更新
100メートル平泳ぎ
1分12秒88
自己ベスト1分12秒28に迫る好タイム

バタフライと平泳ぎでは、木村を上回るタイムで泳ぐライバルが海外に1人ずついる。リオ本番前にトップとの差を詰める結果を出しておきたい、それがコーチ野口智博の選考会での狙いだった。

最終選考会の2種目で日本記録を更新した木村選手

不安と努力と

ただ、新たな課題も見えた。唯一、ベストタイムを更新できなかったのは1種目に泳いだ平泳ぎ。飛び込み直後の入水が深すぎ、浮き上がりが遅れた。普段だったら7、8回のストロークが9回になった。いつもできていることができない。それが大舞台の怖さだ。「自信がない」試合前、木村はそう漏らしていた。目標は一つ、そのためにどんなに集中しても、不安はよぎる。気に入って聞いているはやりの歌には、気づけば、前向きな言葉があふれている。何度も自分を奮い立たせてきた。レース直後の木村を、野口は力強い握手で迎えた。木村はもっといける。見えないためにコースロープにぶつかったとしても、金を狙える。野口はそんな手応えを感じだ。「この大会で結果を出して、木村に自信を持たせたかった。それはできたはず」

リオ・パラリンピックに向けての動画(音声が含まれています)

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それぞれの目標

ロンドン・パラリンピック後、この3年ほど100メートル自由形は1分を切れず、100メートル平泳ぎは2年間、ベストタイムの1分12秒台を出すことができなかった。リオ大会に代表内定し、専門家の指導を受け生活を一から見直し、免疫力の変動を計測して強い体作りをしてきた。1日5食で体も大きくし、倒れ込むほどの筋力トレーニングや泳ぎ込みもした。「こんなに頑張っている人を見たことない」この1年、日々の練習で木村をサポートしてきた日本大学の後輩で同大4年の横山昂暢(たかのぶ、23)は言う。早朝の練習や遠方のプールでの練習に付き添い、タッピングや器具の準備などもしてきた。当初は、目の見えない木村にどう接していいのか分からなかった。食事をしたり、出かけたり、そうするうちにある時、木村の腕を引いているのに、階段をいつもの癖で一段飛ばしで駆け上がりそうになった。「あ、見えてなかったんだ」と踏みとどまった。目が見えないことは、不便なこともあるし、周囲の助けが必要なこともある。ただ、木村にはそれを苦に感じさせない強さがあった。きつい練習で木村を励ましたり、後輩としてからかわれたり、接するうちに、いつしか、木村が目が見えないということを忘れてしまっていた自分がいた。横山は今春、大学を卒業し、社会に飛び出す。リオまで、木村のサポートを続けたいとは思ったが、「自分もキムさん(木村)と同じように、自分の新生活で頑張りたい。キムさんに胸を張れるようになりたい」と話す。

友人たちの思いの動画(音声が含まれています)

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高校3年生で初出場した北京パラリンピックは、入賞できただけで満足だった。2度目のロンドン大会は、銀メダルをとり、うれしくて涙があふれた。3度目。「目標は金メダル。その目標は大会の半年前でも、1カ月前でも、1日前でも変わらない」選考会のレース後、木村は自分に言い聞かせるように言った。(斉藤寛子)
協力:日本大学

=敬称略