第2回 だれよりも

新たな武器

時計の針はすでに午後10時を回っていた。こうこうと明かりのついた室内練習場で、かみじは黙々と練習を続けている。午前の球出しから、すでに練習時間は6時間を超えた。「まとまったトレーニングができるのはこの時期だけ。技術的な練習もできますしね」。リオを見据えて、今、新たなショットの習得に余念がない。2014年にダブルスで年間グランドスラムを遂げたかみじも、それ以降、シングルスでは四大大会のタイトルから遠ざかる。試合はライバルたちに分析され、思い通りの展開にならないことが増えた。「勝ち続けるには新たな何かが必要だった」。そこで、昨年から練習を始めたのが、国枝慎吾らが使い男子車いす界で主流となっていたバックハンドのトップスピンだった。これまでバックハンドは逆回転をかけるスライスだけだったが、高弾道の力強いこのショットがあれば、奥深くに球を打ち込むことができ、相手から浅い球を引き出しやすくなる。「攻めもそうだし、態勢を立て直すための守りのショットにもなる。展開や攻撃の幅は一気に広がる」。飛び抜けたパワーやスピードがないかみじにとって、展開力は生命線。下から押し上げる打ち方も、身長143センチの身には好都合だった。

トップスピンとスライススピンの弾道イメージ

スライススピンは、球の回転が逆回転で弾道が低く、着地後に球があまり跳ねない。トップスピンは、球の回転が順回転で弾道が高く、着地点前に弾道が落ち込み、着地後に球が高く跳ねるイメージ

テニス競技用の車いすの動画(音声が含まれています)

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自分の「足」

すべてのショットは自在に車いすを操る優れたチェアワークが土台にあってこそ生かされる。ただ、競技を始めた11歳の頃は車いすに抵抗を感じていたという。

幼少期のかみじ ゆい

かみじは生まれつき足の筋力が衰える潜在性二分脊椎症の影響で、小学校の中学年までは装具をつけて通っていた。徐々に登下校がきつくなったが、車いすには頼らなかった。「車いすに乗るということは自分の足で歩けなくなったということ。悔しかったし、抵抗もあった」と振り返る。姉の姿を見て始めたテニスも、最初はみんなと同じように自分の足で立って球を追いかけていた。踏ん張りが利かず、動ける範囲もごくわずか。当然ラリーは続かなかった。仕方なく車いすに乗ってみたところ、「意外と動けた」。両親がバスケットボール選手だったことから、テニスを始める前は車いすバスケットをしていた。そこで培ったチェアワークが生きた。「できる感覚がバスケよりもあった」。おもしろさに目覚め、のめり込んでいった。チェアワーク技術を磨く作業は今も怠らない。コーンを置いてジグザグに走ったり、コートに八の字を描くドリルを繰り返したり。「自分が思い描く展開に持ち込むためにはショットの精度は不可欠。精度を高めるためにはチェアの操作技術もなくてはならない。でも一番は、自分は小さくて手が届かないから、勝つためには他の選手より動かないとだめなんです」

小学校6年の頃、テニスをする かみじ

訪れた転機

11歳で競技を始めてから20歳で世界の頂点に駆け上がったかみじには、転機となった試合がある。13年5月に福岡で行われた「ジャパンオープン」だ。大会の3日前までトルコでのチーム戦に出場していたため、大会はぶっつけ本番。シングルス準決勝でドイツ選手に競り勝つと、決勝ではランキング上位のオランダ選手にフルセットの末、2―1で破った。初優勝。「タフな試合で勝つことができて、大きな自信になった」決勝は今でも映像で見返すことがある。1-1で迎えた最終セット。画面には1ポイントを取るたびに鬼のような形相で「カモン」と叫ぶ自分自身が映る。「とにかくすごい気迫で、笑っちゃうくらいに声も出ていた。画面を通じて勝ちたい気持ちが伝わってくる。それが相手にも伝わり、押し切ることができたんだと思う」その年の全米オープンは、シングルスで四大大会初の準決勝進出。ダブルスでは7月のウィンブルドンに続いて、決勝に駒を進めた。大舞台での経験、自信を一つ一つ積み上げ、たどり着いた世界の「頂」だった。

全豪オープンのかみじ photo by ShugoTAKEMI

もっと強く

怖いもの知らずでがむしゃらだったあの時の気持ちで戦うことができたらと思うことがある。一方で、今は冷静に広い視野で自らのプレーを分析できるようになった、とも感じている。「どちらがいいのかは分からない。でも、リオで金を取るために何をすべきかを考えて練習、試合をしてきた。4年前よりも、レベルは上がった」と成長を口にする。

トレーニングとチェアワークの動画(音声が含まれています)

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コーチの千川はロンドン大会以降、教え子のそんな思いを背負い、時には鬼となって世界のトップで戦える選手に育て上げた。リオはあくまで通過点だと千川は思っている。「ゆいののびしろはまだまだあるし、もっと強くなる。一人のコーチにつくのではなく、僕を踏み台にして、さらに上のレベルにいって欲しい」ベスト8に終わった前回大会の悔しさ、献身的なコーチの思いを背負って挑む舞台で、かみじはどんな試合を見せるのだろうか。さかきばら いっせい

=敬称略