既存メディアによる調査報道の衰退は、経営難が見舞ったここ数年の話だけではなかった。
話は1980年代後半にさかのぼる。
米3大ネットワークの一角、CBS。看板報道番組「60ミニッツ」で調査報道のプロデューサーをしていたチャールズ・ルイスさん(57)は、87年に下院議長に就いた民主党の重鎮ジム・ライト議員の不正収入疑惑を取材していた。番組で報じようというルイスさんに、上司の答えは「ノー」。
大メディアの報道姿勢にいら立ちを覚えたルイスさんは88年10月、局を去った。
ライト議長は結局、89年、議員辞職に追い込まれた。疑惑が明るみに出て下院倫理委員会が「クロ」と判定、世論の批判を浴びたためだ。
86年に発覚し、レーガン政権を揺るがしたイラン・コントラ事件。イランへの武器売却代金の一部をニカラグアの反政府ゲリラ(コントラ)支援に流用した秘密工作の一端を最初に報じたのは、レバノンの週刊誌だった。米国の記者は当初、事件の詳細の多くを政権の発表に頼ったという。「あってはならないこと。本当は米国の記者がウオーターゲート事件に次ぐ大スクープにするべき話だった」とルイスさん。
80年代に経営破綻(はたん)が続いた中小金融機関のS&L(貯蓄貸付組合)の放漫経営も、「ワシントンのメディアは追い切れず、最良の報道はテキサスなど地方から出た」と言う。
自由に調査報道をする環境を作らなければ――。ルイスさんは記者2人を誘って89年3月、調査報道NPO、センター・フォー・パブリック・インテグリティ(CPI)を立ち上げた。「公共における高潔さ」を追い求める、といった意味だ。名前こそ壮大だが、拠点はルイスさんの自宅。「経営の経験も、自己資金もゼロ」だった。寄付を求め、財団などに数百通の手紙を送ったが、なかなか読んでもらえない。
そこで「記者が取材源に当たるように、財団の人に会って話を聞き、財団の手の内を把握するようにした」。財団がどんなテーマを重視し、資金を出しやすいかを探り、報道したいテーマと一致したら、資金を出してもらう。「取材と同じ。対象が財団だというだけ」とルイスさん。寄付者の提案にただ乗せられ、報道がゆがむことのないよう、ルイスさんは記者と寄付者との「壁」になるよう努めてきた。
最初は年間予算20万ドル(約1600万円)。だが、徐々に評価が高まり、設立から約15年間の調達額は計約3千万ドルに上った。その間、CPIは数百本もの調査報道を打ち出し、ベストセラー本も出すようになる。(藤えりか)