2009年6月8日13時33分
「日本は民主や自由を掲げているはずなのに、守ってくれなかった。そう感じている元留学生は僕だけじゃない」
89年の天安門事件当時、大阪大大学院で社会学を研究していた趙京(チャオ・チン)さん(46)の言葉に憤りがにじむ。
中国政府の国費留学生だった趙さんは、事件後に発足した民主化組織の関西地区代表を務めた。旅券の更新期限が迫った91年夏、大学当局に相談すると、指導教授から中国総領事館あての「反省文」への署名を求められた。「学業以外の活動に没頭し適切でなかった。今後は学業に専念する」。そんな文面だった。
この出来事について、指導教授は「痛い記憶だ」と振り返る。民主化運動に取り組む趙さんに、中国当局は奨学金打ち切りなどの圧力をかけた。趙さんの旅券が更新される見込みはなく、指導教授は総領事館に何度も働きかけたが、無視され続けた。
途方に暮れていた91年8月ごろ、指導教授は奇妙な体験をした。
研究室に一本の電話が入った。男の声で名前も言わず「ちょっと来て欲しい」。趙さんの件だ、とピンときた。大学から遠くない指示された場所に急ぐと、看板もない殺風景な事務所だった。奥にいた日本人の初老の男は、机の上のファイルを開いて見せた。趙さんがいつ、どんな集会に参加しているのか、詳細に記録した資料の束だった。
「指導教官失格ですな」。男は決めつけ、「日中友好にひびが入りますよ。総領事館に謝罪した方がいい」と続けた。そして趙さんが反省文を書くこと、邪魔が入らない深夜に総領事館を訪ねて謝罪すること、の2点を助言した。
数日後の午前0時過ぎ、総領事館に行って頭を下げた。そして、反省文をつくって趙さんにサインさせ、総領事館に送った。まもなく旅券の更新が認められた。
男の正体はわからない。指導教授は「早く事態を収拾しろ、というのが権力の意向だと理解した」と振り返る。
趙さんは95年、日本での生活に見切りをつけ、米国に渡った。いま「中国政府の顔色でなく、僕という個人に向き合ってくれそうだと思ったからだ」と理由を語る。
日本政府は天安門事件以後も、人権問題で中国を批判するのを控えた。趙さんの件があったころ、海部首相が西側首脳として事件後初めて訪中し、一時凍結した円借款の本格再開を表明。対中関係の全面修復にかじを切った。
当時、外務省アジア局長だった谷野作太郎・元中国大使は「中国を締め上げることがアジアの平和と安定につながるのか。将来的に中国を国際社会にどう位置づけるか。隣国としての第一の課題だった」と振り返る。
青山学院大の高木誠一郎教授(国際政治)は「日本が中国の人権批判を控えた理由の一つに、歴史問題があった」と指摘する。中国政府に戦時中の日本軍の行為を持ち出されないか、との懸念だ。
体制の異なる隣国と、日本はどう向き合うのか。天安門事件が突きつけた課題は、今も続く。中国当局の「磁力」は海を越え、在日華人を縛りつけている。(林望)
■サイト掲載、自ら規制
天安門事件から18年後の07年6月4日、在日華人の知識人が集うウェブサイト「東洋鏡」に一編の文章が掲載された。「我与六四(私と天安門事件)」
「話したくなかったが、こらえきれず、話す。私は歴史を目撃したのだから」
父から聞かされた胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記の死。胡氏の自宅で息子の胡徳平(フー・トーピン)氏に会い、遺影に飾られた白い造花を胸に天安門広場へ。学生たちを統率する組織の顧問になり、6月4日未明の軍による銃撃……。残酷な場面を含め、目撃した武力鎮圧の状況を流れるような筆致で描く。
ペンネームは「黒白子(ヘイパイツー)」。どんな人物なのか。
友人らの話によると、北京出身で、父親は胡耀邦氏の秘書だった。胡氏の家族と共に追悼式に参加している。「人民を虐殺した共産党は許せない」と出国し、90年に父の人脈を頼って来日した。
「当時の経験は封印する」が口ぐせ。酒に酔い「社会が海なら知識人は水先案内人。でも『六四』以降、中国の知識人は黙ってしまった。僕も黙った。それは良くないことだ」と語っていたという。
事件から18年後に封印を解いた。文章は問う。「あれから18年。変化はあるか? ある。ハンストを行った学生も、デモをした民衆ももういない。あれから18年。変化はあるか? ない。デモを行えば、軍隊、戦車、発砲……」
胡耀邦氏という学生に愛されたカリスマ指導者に近い人物による、中国当局にとっては挑発的な内容だ。
「東洋鏡」の創設者に会った。陳君(チェン・チュン)さん(仮名、49)。本業は首都圏の日本企業に勤めるIT技術者だ。
90年代に来日。「在日華人が自由におしゃべりできる茶館(サロン)をつくろう」と、06年5月にサイトを開設。約100人が参加した。
当初から「参加者には政治的なことは書いて欲しくなかった」という。ある新聞編集者から「帰国する度に公安関係者がついてくる」と聞いていたからだ。だが、「黒白子」の文章は特例で掲載した。「『六四』は我々世代にとって消せない記憶だ」
1カ月後、中国で突然、「東洋鏡」が見られなくなった。「六四」の文章が原因で閉ざされたと感じた。以後は管理者5人で、「危険」と判断した文章の削除を徹底している。暗黙の自主規制が「茶館」を覆う。(竹端直樹)