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ことば談話室

 作家幸田文の随筆に「夏され」と題されたものがある。ある夏の「すごく暑い昼さがり」。幸田の家に、息子の病気の治療代を借りた母親がお金を返しに来る。母親の「額から眼尻へかけて汗が湧きだし湧きだししている」。そんな様子に幸田は「はげしい夏されを感じ」た、とつづられる。

 「夏され」とは、漢字をあてると「夏曝れ」。日本国語大辞典に「夏の強い日光にさらされていること」とある。強い日差しに焼かれるような夏をよく表している、いい言葉だと思う。近年の猛暑には、日盛りでは少し優しすぎ、炎暑、酷暑では日本の夏の感じが出ないような気がする。「曝れ」は動詞「曝る」の連用形で、「されこうべ」(しゃれこうべ)の「され」でもある。

 「夏され」という言葉は他の辞書に見いだすことができなかった。使用例も日本国語大辞典にある俳句「夏されのしづかな村や丈山忌(松瀬青々)」(1900年代初頭)しか見つからず、少なくとも現在では季語としても認められていないようだ。

 幸田のこの随筆が世に出たのは1956(昭和31)年。雑誌「文学界」9月号の「特集・エッセイ二十人集」の一つとして、川端康成や井伏鱒二とともに登場する。58年に随筆集として刊行された「番茶菓子」のなかに収まる。当時は「夏され」と言えば、普通にわかる言葉だったのだろうか。あるいは、作家の感性が前面に出た表現なのだろうか。

 徒然草に「家の作りやうは、夏をむねとすべし」とあるように、とかく日本の夏は過ごしづらい。四季のなかでも夏には特別な思いがあるようだ。季語にも「春され(春ざれ)」「秋され(秋ざれ)」「冬ざれ」はあるが、「夏され」はない。

 ただ、これらの季語にある「~され」は、「さる(去る)」=「その時になる。その季節になる」の意=が時節名について名詞化したもの。「夕されば」は「夕方になると」のこと。古くは「古事記」に用例が見られる。たとえば万葉集の「春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ(山上憶良)」のように使う。中古以降は主に歌語に用いられた。

 正岡子規には「夏されば茨(いばら)花散り秋されば芙蓉(ふよう)花咲く家に書(ふみ)あり」の歌がある。♪夏がくれば思い出す(「夏の思い出」)ではないけれど、夏にも余韻のある感慨は大いにあるのだ。こうしてみると、「夏され(曝れ)」も「夏され(去れ)」も、どちらも季節感あふれる言葉だが、使われなくなったのは、同じ音の言葉の混同を避けるためだったとも思えてきた。

拡大林芙美子の旧居には、すてきな広縁がある。
 とりとめもないことを考えているうちに、秋が立つ。炎(も)える夏もやがて秋隣(あきどなり=晩夏)。夏を慈しみつつ端居(はしい)をして涼みたい気分になってきた。「端居」は「家の端の風通しのいい縁側などにいること(夏の季語)」。こんな風情のある納涼の様子は冷房のゆきとどいた生活ではなかなか見られなくなったが、先日、端居したくなるような木造の日本家屋を訪ねた。東京都新宿区中井にある小説家・林芙美子の旧居だ。戦前に造られたもので、平屋の数寄屋造り、今は記念館として開放されている。そこには、兼好法師もうらやむような、素敵な広縁(ひろえん)があって、この家なら「夏され」の季節も涼やかに過ごせそうな気がした。

(池田博之)