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ことば談話室

二つの「狎鷗亭」~浜離宮編~

大西 秀明

拡大東京都中央区の浜離宮恩賜庭園
 「韓流ドラマ」に登場する韓国・ソウル特別市の狎鷗亭(アプクジョン)を、前回紹介しました。いま韓国でファッションストリートになっていますが、もとは15世紀の高官が建てた別荘の名前でした。今回は、別名が狎鷗亭(こうおうてい)という、東京都中央区の浜離宮恩賜庭園の「中島の御茶屋」を訪ねました。

◇将軍家の行楽・接待の場◇

 朝日新聞東京本社にほど近い浜離宮恩賜庭園。25万平方メートルの広大な敷地は自然にあふれ、お花畑では季節ごとにナノハナやキバナコスモスが咲き誇り、上空にはカモメなどの野鳥がみられます。大きな潮入の池の中州に「中島の御茶屋」があり、その脇の解説板には、次のようにあります。

拡大「狎鷗亭」の別名がある「中島の御茶屋」
 「御茶屋とは、江戸時代の大名庭園等に設けられた園遊接待のための施設です。宝永4年(1707)のちの6代将軍徳川家宣が建設したもので、室内からの眺めが素晴らしく、最も立派な御茶屋でした。別名を『狎鷗亭(こうおうてい)』とも呼ばれていました……」

 元々はアシが茂る鷹狩りの場だったこの一帯。17世紀の半ば、江戸の4代将軍家綱が1万5千坪の土地を弟の綱重に邸地として与えて以降、庭園としても本格的に造成が始まりました。綱重と、その子綱豊(のちの6代将軍・家宣)のもとで、浜屋敷として半世紀にわたり庭が整備されました。1709年に家宣が将軍となったのを機に、この庭園は将軍家の別邸となりました。家宣の在職期間は亡くなるまでのわずか3年間でしたが、その間、慣れ親しんだ庭に手を加え、京都から下向した公家たちを招いてもてなしたといいます。接待は和歌を詠み、食事をとり、船を浮かべて船上で演奏する音楽に興じるなど、豪華なものだったようです(小杉雄三著「浜離宮庭園」)。その後も園内に鴨場を設けるなどして、将軍家の行楽の地として改修を重ねましたが、明治維新後は新政府の所管となり、1945年の終戦後、東京都に移管されました。

 中島の御茶屋が設けられたのは、解説板にもあるように1707年、5代将軍綱吉時代の末期といわれています。庭園の中心的な施設として愛され、明治期には、明治天皇とグラント米国前大統領(当時)の会見場所となるなど賓客接待の場としても使用されましたが、1944年11月29日の空襲による火災で、園内の他の茶屋同様焼け落ちてしまいました。現在の中島の御茶屋は、1983年に再建されたものです。

◇謎が残る「狎鷗亭」の名◇

 「狎鷗亭」という名をもつ、二つの史跡。その名に関連があるとの説があります。

 中島の御茶屋にはかつて「狎鷗亭」と記された扁額が掛かっていたそうですが、空襲時に茶屋とともに焼失したといわれています。この扁額の文字の主について、前述の小杉氏は〈1〉1713年4月に徳川家継の7代将軍宣下のため下向した公家によるもの〈2〉朝鮮通信使の揮毫(きごう)したもの、という二つの説を挙げ、「いずれとも定かではない」としています。

 明治初期、木村喜毅が浜離宮庭園の歴史や情景をつづった「浜苑紀勝」には、扁額について以下のように記されています。「壁上扁額曰狎鷗亭。石泉近衛公所書。筆意生動」。これが、〈説1〉の根拠のひとつとなっています。また、浜離宮恩賜庭園の元ボランティアガイド・野添健郎さんは、2001年にまとめたガイド用パンフレットの中で扁額の文字について、近衛家熙のものという説があると記しています。近衛家熙は書道や絵画の達人で、書き記したものが陽明文庫(京都市)などに残されています。
 これに対し、〈説2〉を推しているのが、日比谷公園サービスセンター長(元浜離宮恩賜庭園管理所長)の高橋裕一さん。12度にわたって江戸を訪れた朝鮮通信使のうち、6代将軍家宣の就任祝賀のため1711年に来日した第8次通信使(江戸には約370人来訪)のメンバーが揮毫した可能性が高いとし、「家宣は、自らが整備した庭園を披露したい思いが強く、通信使を招いたのではないか」と話しています。
 朝鮮通信使の記す文字は多くの福利があるとして、訪れる先々で書を求められました。第11次通信使の正使・趙曮が残した記録「海槎日記」(若松実訳)によると、写字官以外の者も書を残すことを懇願され続け、墨をすすぐ暇もなかったといいます。第8次通信使のメンバーの書も福禅寺(広島県福山市)や清見寺(静岡市)など各地に残されています。中島の御茶屋にあったという扁額の「狎鷗亭」の文字が朝鮮通信使によるものならば、ソウルの「狎鷗亭」同様に水鳥の舞う地を目の当たりにした通信使が、遠く離れた故郷を思って「狎鷗亭」としたためて、それが中島の御茶屋の別名になったという推論も成り立ちます。

拡大中島の御茶屋の脇にある解説板(2010年8月撮影)
 仮に、空襲前の扁額の写真が残されていたら、その筆跡から、扁額の文字の主を知ることができるかもしれません。近衛家熙も朝鮮通信使も、数多くの書が現存しており、比較することが可能です。しかし、今のところ扁額の写真の存在を確認することができません。
 さらにもう一つ難問があります。中島の御茶屋の解説板には、2010年8月現在、次の記述があります。「享保9年(1724)火災のため焼失し、64年後の天明8年(1788)11代将軍家斉の治世に再建されました」。1724年に中島の御茶屋が焼失したのが事実であれば(焼失を疑問視する資料もあります)、同時に扁額も焼け落ちた可能性があります。そうなると、空襲時まで残っていたとされる扁額の文字については〈説1〉〈説2〉では説明が難しいということになります。

 中島の御茶屋の別名「狎鷗亭」の由来は、調べると謎が増えるばかりで、結論には至りませんでした。そこで、読者のみなさんのお知恵を借りられないかと思いました。詳しい事情をご存じの方がいらっしゃいましたら、〒104-8011(住所不要)朝日新聞東京本社校閲センター「ことばマガジン」係までお知らせください。

(終わり)

(大西秀明)