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ことば談話室

沙翁の春は〈下〉

池田 博之

 これまで、シェークスピア(沙翁〈しゃおう〉)の戯曲に出てくる花の名の語源を中心に見てきました。最後に取り上げた三色スミレは、恋をもたらすキューピッドの花として「love-in-idleness(無為の愛)」の名で、シェークスピアの「夏の夜の夢」に出てきます。その花の汁を眠っている間にまぶたに塗られると、目覚めて最初に目にしたものに恋をしてしまうというものです。

 シェークスピアで恋のクライマックスと言えば、やはり「ロミオとジュリエット」のあの場面。二人の最初で最後の逢瀬(おうせ)でもありました。坪内逍遥訳(「沙翁傑作集」第2編〈1910年〉)で二人の会話を聞いてみましょう。鳥たちのさえずりも聞こえてくるようです。

◇夜にさえずる鳥たち

〈ジュリエット 「逝(いな)うとや! 夜(よ)はまだ明きやせぬのに。怖(こわが)つてござるお前の耳に聞えたは雲雀(ひばり)ではなうてナイチンゲールであつたもの。夜毎に彼処(あそこ)の柘榴(じゃくろ)へ来て、あのやうに囀(さへず)りをる。なあ、今のは一定(きっと)ナイチンゲールであらうぞ。」

ロミオ 「いやいや、旦(あさ)を知らする雲雀(ひばり)ぢや、ナイチンゲールの声ではない。」〉

 松岡和子訳(ちくま文庫、1996年)では次のようになります。

〈ジュリエット 「もう行ってしまうの? まだ朝じゃないわ。あなたのおびえた耳を貫いたのはナイチンゲールよ、ヒバリじゃない。毎晩あそこのザクロの木に止まって鳴くの。本当よ、ね、ナイチンゲールよ。」

ロミオ 「ヒバリだった、朝の先触れだ、ナイチンゲールじゃない。」〉

 ナイチンゲールは、ヨーロッパでは春を告げる鳥。夜にも美しい声で鳴く鳥として、文学にも多く取り入れられました。英語の由来も「夜歌う」。日本では遠い異国のこの小鳥に「小夜鳴き鳥(さよなきどり)」「夜鳴き鶯(よなきうぐいす)」の名をつけました。

 ロミオとジュリエットのこの場面は、まさに、ヨーロッパ版「後朝(きぬぎぬ)の別れ」ですね。後朝とは男女の朝の別れをいいます。日本では、夜鳴く鳥はナイチンゲールではなく、ホトトギス。平安時代の古今和歌集には、よみ人知らずの歌に

時鳥(ほととぎす)夢かうつつか朝露のおきて別れし暁の声

があります。恋人と別れた明け方に聞いたホトトギスの声は現実だったのだろうか、と歌っています。

◇春を告げる鳥は

拡大東京・向島百花園の梅の花。写っている鳥はメジロ

 ホトトギスは初夏に南方から渡ってきます。日本で春告げ鳥とされたのはウグイス。早春にいち早く「ホーホケキョ」と春を知らせます。梅にウグイスの取り合わせは、絵や和歌の題材としてよく使われてきました。ナイチンゲールが夜に鳴く鶯とたとえられたように、ウグイスは夜には鳴きません。清少納言の「枕草子」には、ウグイスについて、夜に鳴かないのは寝坊しているようでよろしくない、との記述があります。

 ウグイスの語源は、鳴き声の擬声語に鳥や虫などの飛ぶものにつく接尾辞の「ス」がついたという説が有力だそうです。カラスとかホトトギス、キリギリスと同じ成り立ちです。もっとも鳴き声をどう表現するかは土地や時代によって様々です。ウグイスの声は昔の人には「ヒトクヒトク」と聞こえたこともあるようです。古今集に、これもよみ人知らずで、

梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭(いと)ひしもをる

 せっかく梅を見に来たのに、ウグイスは人が来る人が来ると鳴いて嫌がっている、という歌もあります。ウグイスの別名はヒトクドリ(人来鳥)。

◇穏やかな日々を願って

 春の晴れた日の空高く、さえずるのはヒバリ。名前の由来も、ヒハル(日晴)からが有力と言います。漢字で書くと雲雀。告天子(こうてんし、こくてんし)の異名も。英語ではラーク、スカイラーク。ロミオが語るように夜明けを告げる鳥でもあります。

円覚寺拡大梅が咲く漱石ゆかりの鎌倉・円覚寺。「草枕」にも出てくる
 夏目漱石は小説「草枕」で、雲雀は「のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんとみえる」「雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ」と書いています。このとき「草枕」の語り手は春の山道を登っていて、英国の19世紀初頭の詩人シェリーの詩「雲雀によせて」を思い出し、「うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想い、籠(こも)るとぞ知れ」と、覚えていた一節を口ずさみ、詩人の憂いに思いをはせます。

 ここで漱石は、この憂いを押しやって、ひとり山のなかで、ただタンポポや菜の花を見て、雲雀の鳴き声を聞くうれしさに胸が躍るばかりだと書きました。ものの名前には、さまざまな歴史やイメージの積み重ねがあります。そんな背景を思いながら花や鳥に接するのはとても楽しいことです。とはいえ、冬のまといを取り去るのが春。ただひたすら花を慈しみ、その香に酔い、鳥の声に耳を澄ますことこそ、春を心ゆくまで感じることなのだと思います。

    ◇

 わたしが子どものころにはヒバリをよく見ました。皆でヨモギを摘みにいき、草餅を作って食べたこともありました。時は移り、今住む東京の郊外では、ヒバリの姿はなく、ヨモギ摘みもしません。でも、ウグイスは毎春、家の周りで美しい声を聞かせてくれます。そんな穏やかな日常をもてることの幸せを、この春は痛切に感じさせられています。

(池田博之)