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ことば談話室

先生の団体、ではなくて――師団

横山 公也

自衛隊の風呂拡大陸上自衛隊第9師団が設置した「青森ねぶたの湯」
 東日本大震災の被災地での様々な支援に陸上自衛隊の「師団」が活動中です。でも「師」といえば、思い浮かぶのは師匠、教師、恩師・・・先生の集団ではないのに、なぜ「師団」なのでしょう。

◇「師」は2500人

 実は「師」の字は、先生より軍隊の意味の方が先にありました。約2千年前の中国の字書「説文解字」は、2500人のこととしています。やはり中国古代の「周礼(しゅらい)」という書物によると、5人で「伍」、5伍で「両」、4両で「卒」、5卒で「旅」、5旅で「師」、5師で「軍」。計算すると1師は5×5×4×5×5で、2500人になりますね。

 「師」の字は軍隊に集まった多人数の意味から、転じて「大衆」の意味を持ち、さらに音も形も似た「帥」と通じて「長官」も意味するようになりました。さらに「リーダー」、もう一歩進んで「先生」の意味を持つようになります。

 一方、今使われる「師団」は、英語でいうdivisionの訳語です。直接の先祖が登場したのは、200年ほど前のフランス革命のころ。それまでの雑多な軍隊を整理して歩兵や砲兵を組み合わせ、約1万人規模の同じような集団に分割(英語でいえばdivideですね)したものです。これで組織化が進み、指揮しやすくなりました。ナポレオンがこれを駆使して名をあげ、ヨーロッパに広まっていきました。

 日本では明治になって、東京、大阪、熊本、仙台、名古屋、広島の6カ所に「鎮台」が置かれました。これは国内の治安維持が主目的だったといわれます。例えば熊本鎮台が神風連の乱(1876年)や西南戦争(1877年)で襲われているように、内乱・内戦への備えが必要な時代でした。西南戦争や、各種演習のため“出陣”する場合には、そのつど臨時に鎮台から「旅団」や「師団」がつくられました。

明治の師団設置拡大「鎮台から師団へ」を伝える記事。「同年(明治18年度)より」とあるが、実際の改編はその3年後=1883年2月20日付
 6鎮台が廃止され、6個師団になったのは1888年。これで治安維持から外征に重きを置くようになったといわれます。その後は対外戦争の日清・日露戦争などをへて、大正時代には20個師団となり、日中戦争をへて太平洋戦争末には200ほどまで激増、敗戦で消滅するまで60年足らずでした。

 戦後は、1950年発足の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊の初期まで「管区隊」だったものが、62年から師団に。このころは、戦車を「特車」と言い換えていたのをやめた時期でもあります。このときは13個師団でした。現在は師団が9個、それより小ぶりな旅団が6個あります。

◇「旅」は旗の下で

 その「旅団」も、先の「周礼」に出てきました。「旅」は師の5分の1ですから、500人の部隊です。「旅」の字の成り立ちは、右下の「从」が複数の「人」=人々、残りは「旗」。旗の下に集まった人々=部隊を表します。そこから、大勢が行軍する意味、さらに旅行するという意味を持つようになりました。旗を掲げて大勢で・・・というと、つい団体旅行を思い浮かべるところですが、そんなのどかなものではありません。軍旗です。今の旅団は数千人規模ですから、サイズはかなり違いますね。

自衛隊の師団拡大自衛隊の師団設置を伝える記事=1962年1月18日付
 現代の中国語でも同じように、師団は「師」、旅団は「旅」です。ただ、その下の大きさの連隊は「営」と違ったりします。

 外国と違うといえば、日本では戦前から通じて師団長は中将(将)、旅団長は少将(将補)。多くの国では師団長が少将、旅団長は准将ですので、インフレかもしれません。明治に作られた師団は有事には最大2万人を超え、他国の軍団相当の大きさだったとか、平時は天皇に直結していて、自衛隊なら方面隊に当たる上級組織はなく、格が高かったとか事情はあるのですが。准将の方は、米陸軍ならbrigadier general、文字通り「旅団の将軍」なのですが、日本では階級自体が昔からありません

 太平洋戦争中の紙面を見ると、主に米英の「師団長を捕虜に」「師団長負傷」とかの記事が載っています。これがいわゆる水増しの「大本営発表」でなかったとしても、当時の読者は日本の基準でおおげさに読み取ったかもしれません。

 先日の「司令官」もそうでしたが、軍事関係のことばを誤解なくうまく扱うのは、なかなか難しいのです。軍隊は今の日本にないが、相当する微妙に違う組織はある▽過去にはあったが、他国と制度がかなり違い、むろん時代も違う▽現代の各国もそれぞれ独自の制度があるなどなど・・・。そのへんはまた機会がありますでしょうか。

(横山公也)