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ことば談話室

大合併で消えた「くに」

中島 克幸

 平成の大合併は2010年3月にひとまず終了した。地方分権のための自治基盤の強化、さらには財政の効率化との大義名分の下で行われたが、合併後の中心地から離れた地域ではかえって衰退してしまったところもあるという。国からの権限、財源の移譲は進展せず、不満を抱えている自治体も多いだろう。その上今回の大合併では、残念なことに全国各地で馴染みの地名が随分消えてしまった。土地の名というのはその地域の成り立ちや歴史を背負っているものなのに、そうしたことは考慮されず容赦なく伝統ある地名が消された印象がある。

小雨地区の風景拡大旧六合村小雨地区の風景

 群馬県の六合村(くにむら)は合併により中之条町の一部となって消滅した。1900年に、当時の草津村から小雨(こさめ)、生須(なます)、太子(おおし)、日影(ひかげ)、赤岩(あかいわ)、入山(いりやま)地域で分村する際、六つの集落が合わさるということで「六合(くに)」と名付けた。古代の世界観では、東西南北の四方と天地の六つで国を表すことからの命名だという。

 1973年に旧六合村が発行した「六合村誌」には――「六合という名前は、六つの村を合わせたという意味であるが、これをクニと読ませたのは、『古事記』の序文に、天武天皇即位の項で『乾符ヲ握リテ六合(くに)ヲ摠ベ』とか、『日本書紀』巻三神武天皇紀の『蓋し六合(くに)の中心か』によるものであろう」と書かれている。

 また中之条町の六合地区観光情報のサイトを見ると「『六合』を『くに』と読む理由」の項に次のようにある。――「古代東洋では、世界は東西南北及び天地の六面で構成されたさいころの内側のようなものだと考えられていました。六つの面が合わさっているので、世界のことを『六合(りくごう)』とも呼びました。同じく世界を意味する『天下』『四海』『八紘』と同様、『六合』もしばしば『国』の意味をもって使われ――(略)――『六合』は『支配の範囲=国』の意味で使われています。このことから『六合』を『くに』と読み、『六合村』を『くにむら』と読んでいます」ということであった。

◇草津温泉の「冬住みの里」

古い伝統家屋をそのまま利用した「冬住みの里資料館」拡大古い伝統家屋をそのまま利用した「冬住みの里資料館」
 群馬県を代表する名湯、草津温泉。昔からその知名度は全国区であり、江戸時代の温泉番付では、いつのものでも東の大関として君臨していた(江戸時代はまだ横綱という地位はなく、大関が最高位だった)。明治の初期までの草津温泉は、雪深く寒い冬場は温泉営業を休んでいた。温泉を営む人々は旧暦の9月末になると温泉を閉め、酷寒を避けて小雨地区を中心とした地域に冬の間だけ移り住んでいた。そうしたことから小雨地区は「冬住みの里」と呼ばれていた。しかし明治中期以降、交通網が整備され旅館には暖房設備が整い建物も耐寒性に優れたものが建てられるようになると、そうした習慣もすたれていく。通年営業の温泉業者が増え、養蚕などを中心とした農村地域とは生活形態が乖離(かいり)していった。それが分村の理由とされる。

 「冬住みの里」の名残を残す建物が小雨地区に1軒だけあり、資料館となっている。築150年を超えるその家の主であるご夫婦が個人で運営する「冬住みの里資料館」である。お二人とも白髪が似合う仲睦まじそうなご夫婦である。この家の先祖は代々草津で温泉旅館を営んでいた。訪れた文人墨客のゆかりの品々が伝わっており、それを展示しご主人自らが訪れた人々に説明をしている。今となっては地元群馬県の人々もほとんど知らない「冬住みの里」の歴史を伝えようとこの資料館を開設したという。

◇草津の歴史を彩る名品の数々

貴重な資料が眠る白壁の蔵、資料はご主人が整理した拡大貴重な資料が眠る白壁の蔵。資料はご主人が整理した
 白壁の蔵の中を見学させて頂いた。江戸時代から明治にかけての物を中心に展示しているとのこと。十返舎一九が書いた草津温泉往来の本や佐久間象山の掛け軸、横山大観の絵画……など貴重な歴史資料が所狭しと並んでいた。明治時代の温泉パンフレットもあった。この頃にはすでに外国人向けの英語版も作られていた。おそらく開国と同時にドッと外国人が東京近辺に居留するようになり、その外国人用の観光地として草津温泉が注目されていたのだろう。伊万里焼の陶器、輪島塗の漆器なども展示されていた。日本中から湯治客が集っていたことがうかがわれる。

 母屋は一人ではとても抱えきれない大きな大黒柱が支えており、どっしりとした黒ずんだ家具が刻んだ歴史を感じさせる。広々とした居間で感じる解放感は、狭いマンション生活の我が身にはまさに別世界の感覚であった。家の中も貴重な資料が満載である。古い掛け軸に年代物の大黒様の木彫り……私の子供の頃は旧家といえばどこもこのような感じだった。何となく懐かしい。奥様が漬けたという自家製のキュウリの漬物を頂きながら話を聞かせてもらった。透明でよく冷えたキュウリだった。

◇語り部が抱える一抹の不安

古い伝統家屋をそのまま利用した「冬住みの里資料館」拡大築150年を超える母屋。昔は養蚕農家でもあった

 自分達が動ける間は頑張って「語り部」をやっていこうと思っているが、今後の建物の保存が心配だとのことであった。中之条町は保存に積極的だというが、この不況でどうなるかは分からない。人が住んでいれば手入れもするだろうし安心だが、住む人がいなければ荒れ放題になるだろう――。お子さんはどうしているのですかと聞くと、3人の息子さんは都会に出てしまって今はいないという。もちろん一人でも後を継いでくれればうれしいが――。70歳はゆうに超えているであろうご主人がとつとつと語ってくれた。実に身につまされる話であった。私も母を一人残して故郷を出ているからだ。

 過疎と高齢化はここでも影を落としていた。全国各地で同じような情景を見ることだろう。バスを「小雨」で降りたが、人は誰も歩いていなかった。お昼時だというのにシーンとしていた。ここではバスは1日3往復しかない。自動車がなければ生活出来ない村である。しかし住民は運転のおぼつかない高齢者ばかりである。これから村はどうなっていくのだろう。過疎と高齢化の問題はこの村ばかりではなく、日本各地で抱える問題であろう。私も群馬県民の一人として、地域の活性化を真剣に考えなくてはならないと思った。「六合の名前が消えて寂しいですね」と尋ねたら、「いや、あそこに残っているよ」と指さした。そちらを見ると役場支所があり、「中之条町六合支所」となっていた。中之条町は小雨地区の中心地を「字六合」として残したということであった。

(中島克幸)