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ことば談話室

「軽井沢」、長野は長野でも…

中島 克幸

紅葉拡大紅葉しつつある木々
 軽井沢駅で新幹線を降りると、ひんやりした空気を感じた。バスに乗り、北軽井沢を目指す。軽井沢の市街地を抜けると山あいをうねるような道が続き、バスが大きく車体を揺らすたびに体が左右に揺れる。紅葉が始まっており、朱色やだいだい色に染まった木々を窓から眺めながらバスは進む。見ごろには少し早いようだが、絵画のように色づいた風景に心が躍る。終点の北軽井沢は、10月初旬だというのに何だか肌寒い。標高約1千メートル、平野部とは別の世界が広がっている。

 読者は「さすがに軽井沢、長野県は秋が早いなあ」と思われるかも知れない。しかしさにあらず、ここ北軽井沢の住所は「長野原町北軽井沢」――長野県ではなく群馬県長野原(ながのはら)町なのである。夏は避暑のために多くの人々が訪れ、華やかな雰囲気になる。まさに軽井沢と並ぶ日本有数の別荘地と言っても過言ではない。浅間山の北東に広がる広大なこの地域は元々、地蔵川、地蔵堂などという地名であった。ではそれがなぜ北軽井沢となったのであろうか。

■法政大学ゆかりの地

 長野原町観光協会のホームページには次のようにある――法政大学の教授や関係者らによる別荘村(大学村)ができた頃、別荘に来る人たちが北軽井沢と通称で呼ぶようになったのです。その後、その呼び方が定着したので昭和61年に長野原町が南部地域を「北軽井沢」に正式変更しました――。

 この地は元々、法政大学の元学長、松室致(まつむろ・いたす)氏の所有地。1927年、土地を法政大学関係者に分譲し、別荘地「法政大学村」として開拓された。避暑に訪れる人たちが、軽井沢の北にあることから北軽井沢と呼ぶようになり、いつしかその名が定着し地元の人々も使うようになったことから、1986年、長野原町が地名として正式に「北軽井沢」を採用した――これが北軽井沢の由来である。

北軽井沢駅舎拡大保存されている北軽井沢の駅舎。欄間にはHの字が並ぶ
 別荘地が出来た頃は、「草軽(くさかる)鉄道」が軽井沢と草津温泉を結んでいた。スイスの登山鉄道を手本にした鉄道で、全線開通は1926年、55.5キロを約3時間半かけて走っていた。戦後間もなくの最盛期には、年間40万人以上が利用していたそうである。しかし時代の流れには勝てずモータリゼーションの波にのみ込まれ、また度重なる台風の被害もあって、1962年に廃線となった。今は別荘地の入り口にあった駅「北軽井沢」の駅舎のみが保存され、当時の面影を残している。

■往年の名画にも登場

 当初の駅名は「地蔵川停車場」だったが、法政大学が新駅舎を寄贈し「北軽井沢」駅と改められた。駅舎は長野の善光寺を模したと言われ、格子窓の周りは焦げ茶、その上下は白壁で赤いトタン屋根の小さな駅舎である。正面玄関の欄間に誇らしげに並ぶ白い「H」の文字は法政を表しているそうである。中は鉄道の歴史が学べる展示ホールになっている。この駅舎は日本初の総天然色(カラー)映画、木下恵介監督、高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」(1951年公開)にも登場している。たくさんの北軽井沢の写真に交じって映画ポスターも展示されていた。「総天然色映画」とうたわれていたのに、ポスターは白黒写真を赤や黄色を地色にした紙に印刷しただけのもの。それでも当時はカラーを精いっぱい意識した「傑作」だったに違いない。

デキ12拡大駅舎横に展示されている「デキ12形」の模型
 駅舎横には当時の電気機関車「デキ12形」の実物大模型も展示されている。パンタグラフが高く、カブトムシが角を立てているように見えるので「カブトムシ」という愛称で親しまれていた。元々はアメリカの鉱山鉄道用に製造されたそうだが、それを改良し草軽鉄道で走らせていた。意外に小さい車体であるが、高低差の大きい険しい山中を走っていた機関車である。秘めた力を侮ってはならない。ここには劇作家の岸田国士、岩波書店創業者の岩波茂雄らそうそうたる面々が別荘を構えていた。彼らも「カブトムシ」に揺られてここへ来たのだろうか。

■名曲誕生の地「浅間牧場」

 懐かしい「丘を越えて」の歌碑が、北軽井沢の浅間牧場にある。1931年、藤山一郎が歌い大ヒットしたこの歌は、元は作曲家の古賀政男が母校明治大学のマンドリンクラブの合奏曲として作曲したものである。それに詞をつけた島田芳文は福岡県出身で、早稲田大学に学んだ。在学中は浅沼稲次郎(元社会党委員長)や河野一郎(元自民党衆院議員)らとの交遊もあったそうだが、卒業後は作詞家となった。

歌碑拡大浅間牧場に立つ「丘を越えて」の歌碑

 島田は北軽井沢の地をたいそう気に入り、何度も訪れたこの地の情景を歌に込めたそうである。牧場の入り口から歌碑を目指して歩いた。途中で幼い姉妹を連れた親子と一緒になった。5、6歳ぐらいの姉が「もう歩けない」とだだをこねていた。両親と一緒に歩いていた3歳ぐらいの妹がそれを見て「ガンバレ、ガンバレ」とはやし立てている。微笑ましさに思わず笑いがこぼれた。歌のように丘を越えて進むと遠くに浅間山が望めた。霞んでいてはっきりとは見えなかったが、さすがにここまで来ると大きな山である。どっかりと座りこちらを見下ろしているようでもあった。

■過去からの応援歌

 歌碑は牧場を望める見晴らしのいい場所にあった。碑の向こうには牧場が遥か彼方まで広がっている。いつの間にか晴れ間が広がり、真っ青な空である。ついさっきまでは秋の訪れの早さに戸惑っていたのに、今度は上着を脱いでも平気な陽気である。「丘を越えて」は春を思わせるような陽気で弾んだ調子であるが、歌にふさわしい光景になってきた。島田もこの空に感動したのだろうか。空を見上げて感動することなど長いことなかったが、今日の空に久しぶりにすがすがしさを覚えた。牧場の緑もまぶしい。

浅間山拡大遠く浅間山を望む
 歌碑の説明文によると、島田は北軽井沢をこよなく愛し、戦後は浅間高原の近くの山荘に住み、自然を友として悠々自適の生活に生きていたそうである。さっきの幼い姉妹を連れた若い夫婦も歌碑の近くに来たが、碑には目もくれずに牧場の写真を撮っていた。碑の由来を知らないのか、それとも全く興味がないのだろうか。古いものはどんどん人々の記憶から消えていくものなのかと思ってしまい、少し悲しかった。

 先の見えない現在、幾多の困難を乗り越えてきた先人の歩みに学ぶことも大切なのではないか。「温故知新」という言葉もある。暮らしにくい世の中であるが、それだけに一層心には「希望」を持ちたいものだ。この「丘を越えて」が過去からの、我々への応援歌のように感じた一日だった。

(中島克幸)