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ことば談話室

土(つち)。春へ

池田 博之

 ここは古代エジプトの大地。遠くには先の王のピラミッドが見える。撮影カメラがぐっと近寄ると小さな彼女が見える。彼女は大きな玉を押している。自分の体の何倍もある大きな玉を。逆立ちをするように頭を下にして、手を土に踏ん張って、後ろ向きになって足でその大きな玉を押していく。まるで太陽が天球を東から西へと、ゆっくりと移動していくように。ゆっくりと。その歩みは、気づかぬうちに、1メートル先に進む。そしてやがて、自ら掘った土の穴の中に収納する。太陽が西に沈むように。その玉は、彼女にとって命の糧、日々の食べ物、やがて生まれてくる赤ちゃんのベッドで離乳食となるもの。

福寿草拡大ひともとはかたき蕾(つぼみ)やふく寿草(召波)。元日草ともいわれる福寿草。土から萌え出るように花が咲く=鎌倉・長谷寺
 彼女の名は、スカラベ・サクレ。聖なる甲虫。古代エジプトでは、太陽神と同一視され、ナイル川の氾濫(はんらん)のあと、土から現れる様子から、死からの復活、再生、創造の象徴とされた。彼女をかたどった護符はミイラとともに眠る。

 人は彼女のことをフンコロガシとも呼ぶ。大きな玉は糞球(ふんきゅう)。

 カメラは古代エジプトからパンする(向きを変える)。時代はずっとくだり19世紀の南仏。アビニョンの中等学校(リセ)の物理学教師ジャンアンリ・カジミール・ファーブルは、数人の生徒らを連れて春の野に出る。スカラベ・サクレを探しに。

◇恋しく、現れ、匂う

 私にとって「土」のイメージは、自分の子ども時代につながっている。ただ無心に土の上を走りまわっていた日々。草の根がむき出しの土手を滑り台にして遊び、湿った腐葉土の香りに満ちた林の中で虫を追っていた。そんな土の感触がやがてファーブル昆虫記と結びつき、夢中になって読むことにさせたような気がする。

 土といえば、長塚節の小説「土」を思い浮かべる人も多いだろう。なかに「春は空からそうして土から微(かすか)に動く。」との一節がある。「春の土」だけで立派な季語になる。鉛筆を落せば立ちぬ春の土(高浜虚子)。土恋し、土現る、土匂う、などと、春を表す季語は連なる。

 言語学者の新村出によれば、古語で、「天」(あめ、あま)に対して、「地」を「つち」「な」「に」と言っていたという。日本国語大辞典にも、

 「へな(埴、粘土)」=ねばりけのある泥土

 「あおに(青丹)」=「に」は土の意、青黒色の土。青色顔料の土

 「あかに(赤丹)」=赤い土。赤色の顔料

 「しらに(白土、白粉)」=「に」は顔料に用いる土の意。白色の土

などとして、「土」を表す語に「な」「に」の音を使っている。

 土は古くは「はに」とも読んだ。大和朝廷の時代に埴輪(はにわ)などの土器をつくるのを司った土師(はじ)は「はにし」の変化した語で、この「はに」にも「に」がある。「はに」は素焼きの土製品である「埴輪」の「埴」にも通じているのだろう。

「はに(埴)」=きめが細かくてねばりけのある黄赤色の土。古代、これで瓦、陶器を作り、また、衣に摺(す)りつけて模様をあらわし、丹摺(にずり)の衣を作った

 明治時代に日本に里見義の訳詞で紹介された唱歌「埴生(はにゅう)の宿」の「埴生」とは「埴のある土地。埴生の小屋(こや、おや)=土間の上にむしろなどを敷いただけの小さい家、土で塗っただけの小さい家、転じて、みすぼらしい粗末な家、自分の家をへりくだっていうのにも用いる」。「土」が温かく懐かしいイメージを喚起するということも、この曲の原題「Home, Sweet Home」(楽しきわが家)に通じるものがある。産土神(生まれた土地の守り神)の「うぶすな(産土)」は「産(うぶ)す」と「な(土、地)」が合わさった言葉だとされる。

 ギリシャ神話で大地の女神ガイアは、ギリシャ各地で崇拝の対象になった。夫である天の神ウラノスには、そういうことは見られなかったという。母なる大地、地母神への憧憬(しょうけい)、信仰には普遍的なものがあるようだ。多くの生き物が萌(も)え出ずる「春の土」の語感にはそんな背景があると思う。

 大地は優しいだけではない。古く地震を意味する言葉「ない(旧仮名では『なゐ』)」の「な」も土地の意で「ゐ」は場所またはそのものの存在を明らかにする意(広辞苑)とある。もとは「なゐふる(震る)」「なゐゆる(揺る)」だったものが「なゐ」だけで地震を指すようになったようだ。

◇再生へ、踏みしめて

 関東大震災の傷痕が残る東京を舞台に、新派の俳優たちの生きざまを活写した久保田万太郎の小説「春泥」(1928年春、大阪朝日新聞連載)は、復興する「新しい東京」の光景を遠望して幕を閉じる。

 「春泥(しゅんでい)」――明治以降、待ちわびた春の到来を表す言葉として、詩人らに好んで用いられた。霜解け、雪解け、春雨のぬかるみのこと。春の季語。「春の泥」とも。与謝野晶子の歌集「春泥集」が有名だ。江戸時代に蕪村門下で「春泥句集」のある黒柳召波(くろやなぎ・しょうは)という俳人がいたが、この春泥には、春に泥(なず)む(行き悩む、滞る)という意味が強かったように思う。言葉はその土壌の古層に歴史を重ねる。近代になって、「春泥」には、再生の季節のきざしがまといついた。春泥に長靴重く歩みゐるわが幼な子や吹く風の中(石川不二子)。

 日一日と日脚伸ぶまだ寒きときから、暮れなずむ春へ向かう。一歩一歩、それぞれの命の糧を押しながら、土を踏みしめて。

(池田博之)