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ことば談話室

有楽町を歩いてみると

中島 克幸

 フランク永井が歌った「有楽町で逢いましょう」は、当時、東京・有楽町に進出した大阪のデパートのコマーシャル曲だったそうである。企業とのタイアップ曲の先駆けとも言えるこの曲の発売は、1957年というから私の生まれる前である。しかし私が小学校の時でも、テレビやラジオからよく流れていたので、昔の曲は今と違いヒット寿命が長かったのだ。この曲は京マチ子主演の同名映画の主題歌でもあった。デパートは都庁の新宿移転やバブル崩壊による景気の低迷で来客数が減り、2000年に43年の歴史に幕を閉じた。有楽町駅前にある家電量販店が、かつてのデパートである。

デパートの跡拡大デパートの建物を受け継いだ家電量販店はいつもにぎわう

 有楽町マリオン正面にある説明板に以下のようにあった。「『有楽町』の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎<おだ・うらくさい>(長益<ながます>)に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ケ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋<すきやばし>御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に『有楽町』と名付けられたのです」さらに次のようにあったのには驚いた。「江戸時代、大岡越前<おおおか・えちぜん>による、いわゆる『大岡政談』で有名な南町奉行所<みなみまちぶぎょうしょ>があったのもこのあたりです」。こんな史実を知ると、いっそう親近感がわくではないか。

◇「ぼくの有楽町」は朝日新聞東京本社の原点

マリオン拡大朝日新聞東京本社の跡は「有楽町マリオン」になっている
 有楽町は朝日新聞東京本社の原点の地でもある。同じ説明板に「ぼくの有楽町」という作家の童門冬二さんの一文がある。「ぼくにとって戦前の有楽町は“高級な街"だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している」。大手新聞社がひしめき合い、日劇などもあって活気があったのだろう。現在とはまた違う華やかな空間だったのだろうか。“高級な街"とはどんな雰囲気なのか、ちょっと経験してみたかった。

 

 朝日新聞社の跡に建てられたのがマリオンである。中央区の築地に移転した東京本社の2階コンコースに、かつて有楽町時代の編集局で使っていた六角形のデスク(机)が展示されていた。そこには次長が詰め、一線の記者に指示を出したり、原稿のチェックをしたりしていた。次長のことをデスクというが、語源がその机である。同じ机にはアルバイトの学生も座り、電話を取り次いだり使い走りをしたりと雑用をこなしていた。この学生を「小デスク」または「子供さん」と言っていた。しかし実際に呼ぶ時は様々な呼称があるらしく、私の周りではかつて「学生く~ん」と呼ぶ声が響き渡っていた。

ガード下拡大駅ガード下は朝日新聞の社員も親しんだ

 昔は手書きの原稿だったので、乱雑で判別不能の文字が多く苦労したと思う。読めない1文字を確認するため記者を捕まえようにも、携帯電話のない時代、なかなか連絡がつかず、やきもきするデスクも多かったのではないか。

 真偽のほどは定かではないが、ある先輩に聞いた話によると、仕事が一段落すると会社から行方をくらまし、有楽町駅のガード下の飲み屋で少しひっかけて次の仕事に臨んだという豪傑もいたそうである。大らかな古き良き?時代のエピソードである。

◇「君の名は」も「明治大学」も有楽町

数寄屋橋公園拡大数寄屋橋公園にある「君の名は」の碑と岡本太郎制作の「若い時計台」
 晴海通りを挟んで、マリオンの向かいに数寄屋橋公園がある。皇居のお堀が埋められてしまいなくなってしまったが、戦後の混乱期に一世を風靡したラジオドラマ「君の名は」で有名になった数寄屋橋が名の由来である。今は作者の菊田一夫の筆による「数寄屋橋跡」の碑と岡本太郎が、1966年に制作した「若い時計台」というモニュメントが置かれている。このモニュメントは大阪万博会場の太陽の塔そっくりである。私はたまにここでぼんやり時間を過すことがあるが、周りは人波が途切れることがなく、せわしい都会の喧騒の中で自分も生活していることを改めて認識し、少しつらい思いがしたりする。

明治大学発祥の地拡大有楽町にある「明治大学発祥の地」碑
 公園のそばに明治大学発祥の地碑があるが、普通の大人の背丈の半分ほどの赤い目立たない碑なので、多くの人は忙しそうにその前を通り過ぎ注目する人はほとんどいない。もしかしたらOB、OGでもこの碑の存在を知らない人は多いかも知れない。明治政府が招いたボアソナードに学んだ岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3人はフランスへ留学し、「権利自由、独立自治」の精神を普及させるために明治法律学校を設立した。いずれもまだ20代の若者であった。近代日本の黎明期、大志を抱いた若者の夢はその後大きく開花した。その学校からは陸続と有為な人材群が輩出し、日本を代表する総合大学へと発展していった。今では受験生を日本一多く集める人気大学だが、その始まりの地が有楽町なのである。

◇「鹿鳴館」だった場所で

鹿鳴館跡の碑拡大「鹿鳴館跡」の碑は目立たず、注目する人もない
 さらに晴海通りを日比谷公園方面へ行き、公園角の交差点を左に曲がりしばらく歩くと、かつて「鹿鳴館」があった場所である。そこには今、投資法人のビルになっている。黒いスーツに身を包んだビジネスマン達が足早にビルに出入りしていた。中はどうなっているのか少し興味をもったので、ビル地下の食堂街に「潜入」してみた。何軒か店があったが、お寿司屋さんが目についたので入った。大将と女将さんの2人でやっているらしかった。ちょうどお昼時だったのでランチを頼んだ。私は港町育ちなので寿司には少しうるさいのだが、思いのほかネタは新鮮でおいしく頂いた。私が鹿鳴館の碑がどこにあるのか訪ねると、私のカメラを見ながら、「歴史の勉強をしているの」と女将さんに聞かれた。「ええ、少し」とだけ答えた。なぜか照れくさく、取材とは言えなかった。

鹿鳴館跡ビル拡大鹿鳴館跡には近代的なビルがそびえる
 有楽町とは首都・東京の中心として、様々な歴史ドラマが展開された地である。2・26事件(1936年)では、朝日新聞社は反乱軍に占拠され、近くの泰明小学校には政府軍が駐屯し反乱軍と対峙していた。昭和30年代のロカビリーブームに火をつけた、日劇で開催されたウエスタンカーニバルは今では伝説となっている。映画やショッピングなどの娯楽色の強い繁華街の印象が強い有楽町であるが、日本史を語る上で欠かせない重要な街でもあるのだ。日本史は有楽町で展開されたと言ったら言い過ぎだろうが、まだまだ埋もれたドラマが眠っているに違いない。私にとっても興味の尽きない街である。有楽町に寄った際はぜひじっくりと街を味わって頂きたい。様々なドラマがあったことに気づかれるだろう。

(中島克幸)