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ことば談話室

Timbuktu(ティンブクトゥ)――想像しうるもっとも遠い場所

三原 紀子

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 「来世というのが実際にある場所だとミスター・ボーンズは信じて疑わなかった。そこはティンブクトゥという名であり、ミスター・ボーンズが理解する限りどこかの砂漠の真ん中にあって、ニューヨークからもボルチモアからも遠い、ポーランドからも、一緒に旅を続けるなかで訪れたどの町からも遠いところにある。あるときウィリーはそこを『霊たちのオアシス』と呼び、またあるときは『この世界の地図が終わるところでティンブクトゥの地図がはじまる』と言った。そこへ行くにはどうやら、砂と熱から成る巨大な王国、永遠の無が広がる地を越えねばならないらしい」(「ティンブクトゥ」、ポール・オースター著、柴田元幸訳)

 ――あるお休みの日のこと。百貨店をぶらぶらしていたところ、香水売り場でヒスイ色のラベルのついた瓶に目がとまった。「TIMBUKTU」と書かれたその瓶を手に取り、試香紙に吹きつけ香りを試してみる。乾いた土地の日差しの強さと、その強さが生み出す影が目に浮かぶ。ああ、何だか異国の香り、自分用には難しいかな……。そんなことを思いながら目をつぶって何度も吸い込んでいると、お店の人が言った。

拡大帰国してから買った「TIMBUKTU」

 「TIMBUKTUって、西アフリカにあるマリっていう国の地名なんですよ。調香師が実際に行った時のイメージでつくったそうです。私もこの前アフリカ行ったんですけど、飛行機を降りて空気に触れた瞬間、『あっ、TIMBUKTUの香りだ』って思いました」

 不意に、以前旅したモロッコの赤く乾いた砂漠が脳裏いっぱいに広がった。砂漠と香りが混然一体となる。体感したい。行こう。数カ月後、私はマリに旅立った。2006年の夏のことだった。

拡大左がトンブクトゥの砂、右がモロッコの砂。サハラ砂漠でも場所によって色が違う

◇黄金の帝国

 Timbuktu(ティンブクトゥ、Timbuctooとも書く)は英語表記だ。マリの公用語であるフランス語ではTombouctou(トンブクトゥ)と表記する。サハラ砂漠の南端に接し、11世紀にサハラの遊牧民族であるトゥアレグが宿営地にしたことからできた町とされている。

拡大通りにある窯でタクラと呼ばれるパンを焼く女性と焼き上がりを待つ子どもたち。少し塩気があっておいしかった。ちょっとジャリッとするのもトンブクトゥならでは?

 その後、サハラでとれる塩とニジェール川でとれる金の貿易の拠点として栄えるようになった。14世紀前半にエジプトの地誌家アル・ウマリの書いた記録によると、1324~25年にかけて、マリ帝国のムーサ王は1万2千とも2万ともいわれる奴隷と15トンの金塊とともに、メッカ巡礼のために立ち寄ったカイロで、君主に22キロあまりの金塊を贈り、街中の人々にも惜しげもなく黄金を与えた。カイロではムーサ王の訪問後十数年の間、金の相場価格が下落したという。

 またこんな話もある。アラブの商人が黄金のとれる植物についてムーサ王に尋ねた。王は、根が金で出来ていて雨期の終わりに砂漠に芽を出すものと、ニジェール川の川床に根が埋まっていて、年中採れるがあまり質がよくないものとがある、と答えたという。今となってはこれらの話をうのみにするわけにもいかないけれど、ヨーロッパ人がこれらの話を読んで、交易都市として栄えていたトンブクトゥに理想郷のイメージをあてはめ、焦がれたのも想像に難くない。

拡大イスラムの教えを学ぶ子どもたちと先生。コーランをみんなで読み上げるかわいい声が町なかに響いていた

 18~19世紀にかけて、ヨーロッパ各国は賞金を出し、探検家はこの地を目指した。幾人もが病死したり行方不明になったりするなか、1828年にトンブクトゥにたどりつき、戻ってきたのはフランス人のルネ・カイエだった。カイエはアラビア語とコーランを学んで現地の人に成りすまし、病に苦しみながらも無事に帰国。トンブクトゥとの間を往復した初めてのヨーロッパ人としてフランス地理学協会の賞金を得た。

 しかし、過度なあこがれは落胆に変わる。フランスに戻ったカイエはこう書いている。「ヨーロッパ人の好奇の的であったこの不思議な町に入ったときの私の感激は筆舌につくしがたかった。……だがその感激がおさまったとき、私の前にあった光景は、およそ私が思い描いていた姿とはかけはなれていた。噂にきいていた豊かな町などではさらさらなく、一見したところ、みすぼらしいドロの家の集まりにすぎなかった。そしてそのまわりには乾燥し切った黄色い砂漠がひろがっているだけだった」(「私のニジェール探検行」、森本哲郎著)

 ムーサ王のメッカ巡礼は14世紀前半。15世紀半ばからマリ帝国に代わってトンブクトゥを支配したソンガイ帝国は、多くのモスクや学校を建て、宗教・学術都市として発達させた。しかしモロッコ軍の襲撃を受けて16世紀末に滅亡、トンブクトゥも衰退していたのだ。カイエが足を踏み入れるまでに500年の月日が流れている。今とは時間の流れが違うかも知れないが、同じような景色が広がっていると考える方がおおらか過ぎる気もする。

◇黄色い砂漠、青衣の民

 日本からドバイ、モロッコ、マリの首都バマコを経てトンブクトゥへ向かう。雨期のバマコは砂ぼこりはあるものの、木々が茂り、蒸し暑かったが、機上から大地を眺めていると、北上していくうちにみるみる緑が失われ、途中からは褐色化し、クレーターのようになっているのがみてとれた。そしてトンブクトゥに到着。外へ出ると、火山灰のように細かく、黄みがかった砂が、日干しれんがで出来た箱形の建物が並ぶ町をのみこもうとするような風景が広がっていた。生命の危険を冒した探検家たちと同レベルで語るのは大変心苦しいけれど、いくつも飛行機を乗り継いできたのに、確かにこれは廃虚寸前の町にしか見えない。と思ったが、はたと思い直す。探検家が来てから200年近くが過ぎている。それなのに、同じ場所にいてその記録に違和感を感じないのは奇跡に近いのかもしれない。

拡大モハメッド・アリさん
 トゥアレグのガイド、モハメッド・アリさんに町を案内してもらう。トゥアレグはサハラ砂漠を縦横無尽に行き来して遊牧や交易をしてきたことで知られ、男性が着る青い衣装とターバンから「青衣の民」と呼ばれる。アリさんは評論家の森本哲郎さんがトンブクトゥを訪れた時にガイドを務めた。森本さんも書いているが、身のこなしが優雅で絵になる人である。ちなみに独の自動車メーカー、フォルクスワーゲン社は「自由で誇り高い精神を持ち、悪路をものともしない」などのイメージに合うことから、自社のSUVに「トゥアレグ」の名を冠した。初代のイメージカラーは青だった。

拡大ジンガリベリモスク。通常は中に入れるらしいが、偶然入れない日でした。残念
 泥と日干しれんがでできたスーダン様式のモスクはマリの代名詞だ。町で最古のジンガリベリモスク、宗教学校を併設していたサンコーレモスクなどを見学する。
拡大サンコーレモスク。最盛期には2万5千の学生がいたという

 町を見て回っている間に、突然思い出した。香り! 忘れるくらいだから、全然よい匂いなどしてこないのだ。かぎ取れるのは、家畜と市場の匂いくらい。判別できない異国の香りはするのだが、日本でかいだ香水のとはまったく違う。それこそ勝手な妄想を広げてここまできた私が悪いが、このまま引き下がるのも惜しい気がして、市場で何か売っていないか探すことにした。

 

拡大買ってきた粉末香水。首筋やわきの下にすり込めと言われたが……勇気が出ない
おもちゃやサッカーのユニホーム、豆を発酵させたスンバラという塩気のないみそを固めたような調味料など、雑多な商品のなかを歩いていると、香料らしきものを売っているお店に、木の葉を粉末状にして香りをつけたものがあった。外国のルームスプレーを思わせる香りで、私がマリを知るきっかけになった香水の売り文句「野性的でいて洗練され、クリーミーでウッディ」とはうーん、だいぶ違う印象を受けるがこれも何かの縁。日本に連れて帰ることにした。

◇「世界の果て」はいま

 英語の「Timbuktu」という語に「想像しうるもっとも遠い場所」「世界の果て」という意味があると知ったのは、冒頭で引用したポール・オースターの本を、マリから帰った後に読んだからだった。英国の作家ブルース・チャトウィンが書くところによれば「Gone to Timbuctoo」は「正気を失った」「家族を捨てて消えた」という意味を表すという。

拡大香料売り場の女性。マリの女性はみんなおしゃれ

 どうしてこういう意味になったかは、多くのヨーロッパ人が幻の黄金郷を夢見てかなわなかった歴史を考えれば想像がつく。現在では、アフリカはヨーロッパからは比較的行きやすいし、昔のように命がけででかける必要もない。「黄金郷」を一目見たい旅行客も多いだろうし、観光業は重要な収入源だ。

 しかし今、トンブクトゥに深刻な問題が起きている。3月に首都で国軍兵士らが起こしたクーデターに乗じて、トゥアレグを中心とする武装集団がマリ北部の複数の都市を制圧、4月にトンブクトゥを含むマリ北部地域の独立を宣言したのだ。親族を頼ってトンブクトゥから離れる住民も出てきているという。

 トゥアレグの武装蜂起はこれまでにも何度かあったが、今回の深刻さはリビアのカダフィ政権に加勢していた兵士が最新の武器を持ち帰国したこと、さらにアルカイダ系やナイジェリアのイスラム過激派なども合流していることにある。サハラ砂漠で暮らしてきたトゥアレグは、国境を設定されることで閉じ込められてきたのに、今度は自ら国境をつくるつもりなのだろうか。

 交易都市としての機能は今や微々たるものだし、長期的な干ばつで農耕や牧畜で暮らしていくのは難しいだろう。その上観光客まで来なくなれば、トンブクトゥはたどり着くことが困難な「世界の果て」に戻ってしまうかも知れない。

 今回のニュースで初めてトンブクトゥという地名を聞いた人も多いだろう。人の手によって代謝を繰り返し、有機的な美しさで目を見はらせる泥のモスクや、圧倒的な色彩感覚と抜群の容姿をもつ女性たち、芸術作品のように手の込んだ帽子を日用品として使うさまなどに魅了された私にとって、こういう形でマリが知られるようになったことは、とても切なく、悲しい。これからのマリのニュースが少しでも平和で、行ってみたいと思わせるようなものであることを願ってやまない。

拡大トンブクトゥと双子といわれるジェンネのモスク。月曜に開かれる市場はたくさんの人でにぎわい、活気がみなぎる

(三原紀子)