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ことば談話室

自転車は「押す」のか「引く」のか

佐藤 司

 なぞなぞを出されました。「東京にある上り坂と下り坂、どちらが多い?」。学生時代に過ごした坂の街・神戸が思い浮かんだものの、ひらめきがないまま時間切れになり、解けませんでした。

 答えは、上り・下りの坂ともに「同数」。坂を下から見るか、上から見るかの違いで、坂そのものは上下で一対です。視点の違いでまったく反対の言葉になるという謎かけですが、これを思い起こさせるような表現が新潟市内で目に留まりました。

 商店街の入り口にあった「自転車を引いて通行してください」という表示です。自転車を降りて前方へ進ませる動作を表す場合、今までは「押す」とばかり思っていましたので、「引く」という表現に興味を覚えました。

 私は宮城県出身の40代です。地域や年代によって表現が変わるものなのか、それとも人の感覚によるものなのか……。どのように表現されているかを方言研究者や日本語学の専門家らに聞いてみました。

 ●自転車との位置、どう意識

 最初に、隣の岩手県、「盛岡弁(ことば)学会」会長の本堂寛さん。直感的に「引く」と思ったそうですが、考えた末に「押す」と答えました。「引く」だと人が自転車よりも先に立って前方へ動かすように思え、ふさわしい言い方とはいえないので「押す」と考え直したと言います。

引く看板拡大「引く」を示す看板が新潟市内の商店街入り口に
 では、考えを変えた背景は何だったのでしょうか?

 金城学院大(名古屋市)教授の下野雅昭さんはこうみます。「自転車が人の横に位置しているため、どう言ったらよいか迷うのではないでしょうか」。なるほど、迷わせる原因は自転車の形態が前後に長いためでした。人がほぼ真ん中に立つので、自転車との位置関係をどう捉えるかで表現が分かれそうです。

 押す派の主な理由は――

 「立ち位置は自転車の横ですが、持っているハンドルは自分より前にあるので、押すと言っています」(鳥取短期大准教授の岡野幸夫さん)や「前輪より体が後ろにあるので」(中原中也記念館〈山口県〉名誉館長の福田百合子さん)、「自転車の側面または少し後方から力を加えて移動させる意味が(押すには)あります」(秋田大特別教授の佐藤稔さん)と説明します。自転車のどの部分が人よりも前にあるかや、力の方向性に視点をおいているのが分かります。それに「引く動作は自分の後方に位置するのが自然です」(香川大教授の柴田昭二さん)と、本堂さんと同じように「引く」を避けた理由も挙げています。

 ●乳母車も「引く」感覚?

 対して引く派は――

 「あくまで主体は自分。自転車は主体に付き従って移動する意識が働くので引くと言っています」と答えるのは山形大准教授の池田光則さん。「意識の中では自分が前方にいるという図式があるのかもしれません」と池田さんは感覚的なイメージを説明します。続いて仁愛女子短期大(福井市)准教授の前田敬子さんも「進行方向に向けて(踏み出す)足が自転車の重心よりも前にあるため」と「引く」がふさわしいと主張。さらに、人よりも前にある乳母車も「引く」と言う可能性がありそうだと池田さん。前田さんは「私の生活圏では実際に言っていますよ」と話し、2人には共通するところがあります。

 一方、琉球大教授の狩俣繁久さんが那覇市内での言い方を調べたところでは「ハンドル カチミティ スンチュン(ハンドルをつかんで引っ張る)」と言うそうです。「人力車を引っ張る(スンチュン)と言ったことと、(自転車を)降りて移動する格好が(人力車と)よく似ているからでしょうか」と推測します。

 人力車や荷車を思い浮かべてみましょう。荷車は、荷物を運ぶために使われる、車輪の付いた輸送用の道具です。前に突き出た長い柄を体の前で持った人が前方へ力を加えれば、後方にある荷台が動きます。学習院大教授の安部清哉さんによると、このとき柄を「押す」動作であっても「(荷)車を引く」というのは、慣用句化した表現だそうです。荷車の前では「引く」、後ろでは前の人を手助けするために「後押し」がつき、力の働き通り「押す」ことになります。

 ●「視点」の所在で変わる表現

 「引く」も「押す」も両方使うという併用派もいます。1人は「自分の体と自転車の位置により押すが使いやすかったり引くが使いやすかったりと、どちらも使用します」(いわき明星大准教授の中山英治さん)。もう1人は「前にあるハンドルに注目すればリヤカーと同じ認識、腕の動きに注目すればハンドルを後ろから押す格好になります」(山梨県立大教授の秋山洋一さん)。場面や状況、その時の意識によって使い分けているようです。

 今度は、同じ小学校の低学年と高学年とで表現が分かれたケース。福島県の方言研究者で南相馬市の小学校で教える小林初夫さん。本人は「引く」派ですが、勤務する小学校の児童に挙手させて調べた結果、低学年では「押す」児童が多く、高学年になると「引く」児童がやや多かったそうです。小林さんは「力が弱い児童は(自転車を重く感じるため)押すと表現するのかな」と分析しています。

 「押す」と「引く」は反対の意味の言葉ですが、「押す・引く」も一対の表現だと気付かされます。弧を描いて開閉する開き戸は、一方からは「押す」動作、反対側からは「引く」動作で開きます。扉自体の開く動きは同じです。しかし、どちらから開けるか、視点の違いで、まったく正反対の表現になります。この視点に注目する学習院大教授の前田直子さんは「自転車を前へ進める同じ動きでも、意識の視点で押すにも引くにもなるのだと思います」と説明します。

 あなたは、どちらを使っていますか――。

(佐藤 司)