ことば談話室
(2013/03/28)
青森と東京が新幹線で2時間59分で結ばれたというニュースから、ふと思い浮かんだ「夜汽車」。辞書では「夜に運行する列車。夜行列車」と定義されているが、単にそれだけでは説明しきれない何かを含んでいると感じる。
夜行列車といえば、昭和の大ブームを経て、ここ数年で立て続けに廃止になったブルートレイン。残る「あけぼの」と「北斗星」のうち、筆者は今月初旬、鉄道ファンに「絶滅危惧種」と呼ばれる青森発上野行きの「あけぼの」に乗り込んだ。
青森駅を午後6時22分に動き出した列車は、12時間36分を要して上野駅に向かう。秋田駅を発車後、車掌の「おやすみ放送」があり、車内に静けさが広がった。いよいよ、感じてみたい「夜」が始まった――。(前回から続く)
●「山男」眺めたら、うるっと
「おやすみ放送」後も「あけぼの」は淡々と闇夜を走り、それにつきあって起きていた。今回は「B寝台個室ソロ」を一夜の宿とした。とても狭く、まさしく大人が1人寝るスペースしかない。「独房」と悪口をいう人もいるが、かつてのB寝台の幅52センチ時代を知っている当方からすれば、最高にぜいたくな空間で、通常の開放式B寝台(幅70センチ)と同じ料金というのも魅力的だ。室内の電気を消すと、車窓から日本海が見えた。
最近は夜を実感することが少なくなった。筆者も仕事帰りには午後10時すぎの電車に乗って帰宅しているが、それは単なる通勤の交通手段であり、外が暗いからといっても、昼間からの時間の流れは継続している。
しかし、夜汽車に乗ると、忘れていたような夜を味わうことができる。そこには日常からは外れた空間が広がり、時間が流れている。現代では味わえない濃い「夜」がここにある。
「うらむがごとし」と芭蕉が詠んだ象潟駅から先、鶴岡駅を過ぎ、午前0時38分発の村上駅あたりまで、奥の細道ルートをたどる。律義に停車し、こまめに旅客を拾っていく。このあたりも「あけぼの」にファンが多い所以(ゆえん)だろう。
しかし、子どものころは朝まで起きていても平気だったが、やはり歳(とし)を重ねた。新津駅到着の時にはすでに意識がなく、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と川端康成の「雪国」の冒頭に登場する清水トンネル通過は夢の中だった。深い夜は眠るためのものでもある。
目を覚ますと、車窓が明るくなりかけている。カーテンを開けると空の一部がオレンジ色になって、月がポツンと浮かんでいた。まだ6時前だが、すでに駅のホームには通勤客の列が見える。日常に戻ってきたことを痛感する。この変化もまた夜汽車ならではのものだ。明るくなるにつれ、月は見えなくなっていき、ビルと通勤客が増えてきた。
午前6時29分大宮駅着。あと30分ほどで上野だ。「あけぼの」は通勤電車の合間をぬうように走っている。
定刻、6時58分。上野に到着した。無事に東京まで連れて帰ってくれた機関車に謝意を示すべく先頭に行くと、「峠のシェルパ」「山男」といわれる機関車がいた。青森から頑張ってきた機関車と長岡駅で交代した。上越線の峠越えをすべく長岡に配置されたもので、旅客が眠っている間、峠の上りでは速度を落とすことなく車両を引っ張り、下りでは踏ん張るのが仕事だ。正面から見ると、人間の顔に見えるし、うるっとしてきた。やばい。一般の人の目があるので、ほどほどにして改札を抜けた。
●思索の時を与えてくれる
筆者は今までに日本のすべての都道府県に足跡をとどめている。しかし名勝探訪とはほど遠いため、おすすめの観光地を尋ねられると、首をひねることが多い。もっとも、偉大なる元禄、昭和の紀行作家の旅のスタイルを継承しているとの自負もある。
「夜汽車」とは現代において、「夜」を感じさせ、「線の旅」の良さを教えてくれる絶滅危惧種と定義できようか。
列車内での「夜」の時間には様々なことを教わってきた。子どもの頃から約40年におよぶ鉄ちゃんの自分にとって、列車の車窓は学びの窓だった。日中では想像できない、深夜寝静まった駅でも駅員が列車を見送ってくれること、空に浮かんだ兎(うさぎ)が逆さまで餅をついたりすること、朝起きると牽引(けんいん)する機関車が変わっていて、電気には直流と交流の違いがあること……高校の物理で習った「ドップラー効果」も、踏切通過時の警報機の音の変化でリアルに体感できていた。知識を授け、思索の時を与えてくれたのは「夜汽車」であった。
東京と新青森を3時間弱で結んでしまう技術力は称賛すべきものだ。しかし一方で、「夜汽車」といった旅情あふれる言葉をまた一つ過去のものに追いやる。日本の「夜」は薄くなり、「点」と「点」の距離は縮まって、狭苦しく、せわしなくなってゆく。
(平井一生)