メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ことば談話室

相撲字と番付

町田 和洋

 15日の大相撲秋場所の初日を前に、両国の国技館(東京)入り口近くの櫓(やぐら)に板番付(いたばんづけ)が掲げられる。屋根にあたる部分は「入」の形に組まれている。「入屋根形(いりやねがた)」といい、大入り満員を願ったものだという。板番付は本場所が始まる直前に行司の手で書かれる。まず印刷物として出回る紙の番付がどのように出来るのかから話し始めたい。

書き込み中の板番付。完成後、本場所初日の2日前には掲出される拡大書き込み中の板番付。完成後、本場所初日の2日前には掲出される
 番付(正式には番付表)は上位者ほど大きく太く、地位が下がるにつれて格ごとに小さく細く書かれる。向かって右に東方、左に西方の力士の名が右端の横綱から左へと順に並ぶ。これがまさに番付順だ。縦は5段に分かれ、最上段に幕内力士、2段目に十両と幕下、3段目は三段目、4段目に序二段、5段目に序の口と年寄、呼び出しらの名が並ぶ。中央には「蒙御免(ごめんこうむる)」と太い字である。江戸時代に相撲が幕府の許可を受けての興行であることを掲示して以来のもので、現在も番付に書く慣例になっている。

 番付は「相撲字」〈注1〉と呼ばれる独特の書体で、行司が毛筆を使って書く。実際に2000年春場所から07年秋場所まで番付を書いた、36代木村庄之助の山崎敏広さん(65)に話を聞いた。

36代木村庄之助 山崎敏広さん拡大36代木村庄之助 山崎敏広さん
 山崎さんは1964年から今年の5月場所まで49年間、行司として土俵に立った。入門以来、先輩行司について様々な仕事を見て学んだ。力士の取り組みの裁きだけでなく、番付や部屋の看板などに使われる相撲字の習得も行司の大切な仕事。まず山、川、海、錦、花の5文字、力士のしこ名によく使われる字を古新聞のテレビ欄の枠を利用して練習した。「行司は習字」とも言われる修業の始まりだ。

 相撲字は、字画の間の白い部分をできるだけ少なく、字画の一本一本を太く黒々と塗りつぶすように書く。これは、場内大入り満員で立錐(りっすい)の余地がないようにという縁起をかついだものと言われる。かつての版元の名から根岸流とも呼ばれる。「楷書(かいしょ)とは別の相撲書とも言えるような書体で、かすれや太さを修整するために二度書きしても構いません」と言う。筆を持つ手は必ず右で、左利きは直されるそうだ。

 新しい番付の発表は通常、本場所初日の13日前の月曜日(今場所では9月2日)。刷り上がった新番付もこの日から出回る。番付編成会議は本場所千秋楽から通常3日後に開かれ翌場所の地位が決まるが、この日まで伏せられる。横綱・大関と十両への昇進だけが例外として会議当日に発表される。編成会議には3人の行司が書記として付き、ここでの記録が翌場所の番付表の元原稿になる。

秋場所番付拡大秋場所番付
 紙の番付表の原版=「元書き」は原則1人で書く。編成会議で書記を務めた行司1人が書き手で、2人が助手に付く。縦109センチ、横79センチのケント紙に助手が四角の大枠を引き、力士の人数に合わせた割り付けの線引きをする。これだけで2日がかりだ。割り付けが決まると、山崎さんの場合、まず左下の「千穐万歳大々叶(せんしゅうばんざいだいだいかのう)」〈注2〉から書き始める。

 後は下段から上段、左から右へ、細い字から太い字へと順に書き上げていく。最上位の東横綱を書き込んで完成だ。左から書くのは書いた字の上に手が乗らないようにという工夫でもある。筆は7種類、序の口などの一番細い字は、毛が抜けて穂先だけになった使い古しの筆を先輩に譲ってもらって使っていたという。現在は力士が約630人、年寄、行司、呼び出し、床山らが約200人で合わせて830人の名前が1枚の番付に書き込まれている。

 番付を書く行司に一番大切な資質は「口が堅いこと」。「番付一枚違えば家来同然」という言葉があるように、相撲の世界では番付は絶対的なものだ。十両に上がれば、月給がもらえ所属部屋でも個室が与えられ付け人が付く。幕下以下は月給もなく大部屋での共同生活でちゃんこ番など雑用も多く、十両以上の関取の付け人に付く立場だ。年齢は関係ない。十両になると生活が一変し、化粧回しなど支度の必要があるので、昇進が決まった日に知らされる。日常生活すべてについて回る番付は、決められた発表日までは絶対の機密事項。関係者の誰からも漏れてはならないのだ。

 番付書きにかかる2週間は家にこもり精神を集中して書く。山崎さんは書いている間、電話は留守電にして妻や家族には買い物など用を作って外出してもらったそうだ。10日がかりで書き上げた後、書き手と助手の計3人で点検する。誤りが見つかれば紙をカミソリで削って書き直す。「発表後もしばらくは心配でした。印刷され多くの人の目に触れると後援会や一般の方から指摘を受けることがありますからね」。まる1日がかりの校正が終わった「元書き」が印刷会社に回り、縮小して写真製版され元の縦横半分の大きさの和紙(縦58センチ、横44センチ)に印刷される。東京場所では約60万部が発行される。

電光掲示板のプレートを書く木村恵之助さん。現在の「元書き」の書き手だ。国技館場内の東西にかかる電光掲示板は既にあるものは使い回すが、昇進者や改名者の分は新調する拡大電光掲示板のプレートを書く木村恵之助さん。現在の「元書き」の書き手だ。国技館場内の東西にかかる電光掲示板は既にあるものは使い回すが、昇進者や改名者の分は新調する
 「番付表は日本相撲協会の看板」。山崎さんも初めて番付の「元書き」をするときには「手が震えた」そうだ。相撲字は「先輩の字をまねても、うまくはいかない」という。運筆の横棒の微妙な右上がり、しこ名の姓と名の部分の間の開け方など書き手によって違いがある。「書き手の個性が出て、だんだん落ち着いてくる」ものだそうだ。山崎さんの後任で、現在の書き手の幕内格〈注3〉行司、木村恵之助の洞沢裕司さん(51)も「まねから始まるが、自分で研究していく。書き手が代わると別の印象に仕上がるものです」という。行司の手による番付について、「相撲の文化・伝統を担うものとして、後世に伝えていくのが私たちの務めです」と二人は語る。

 板番付は印刷された紙の番付表が発表された後に、幕下格の行司2~3人が分担して書く。割り付けの線引きの後、横綱から幕内までが並ぶ1段目、小さく細い字の序二段が並ぶ4段目など段ごとに担当を決めて書いていく。板はヒノキ製で高さ約2メートル、幅約1・5メートル。本場所の2、3日前に会場入り口近くの目立つ場所に掲げられる。東京場所では本場所が終わった後は表面をかんなで削って文字を消し、繰り返し使う。国技館の板は初、夏、秋場所で年3回出番があり、10年ぐらい使えるそうだ。

板番付を2人で製作中拡大板番付を2人で製作中
 板番付の登場は紙の番付より早く、元禄期(1688~1704年)とされる。興行を知らせ多くの人を呼び込むため、出場する力士の顔触れと序列を板に書いて興行地などに掲示したのが始まりという。相撲人気の高まりとともにより広く告知するため、1717(享保2)年ごろから木版で紙に刷られた番付が発行されるようになった。人々は板番付を見に行かなくとも出場力士などが分かるようになったのだ。

 紙の番付が、現在のような縦一枚で右に「東方」、左に「西方」を並べて書くような形式になったのは1757(宝暦7)年の江戸が最初とされる。それ以前は、東西を一枚ずつに分けて二枚一組にした横長の番付で、大坂では長く横二枚型が使われたが明治になってから縦一枚型になったそうだ。

 番付表は現在のランキングものの元祖とも言える。江戸期には既に全国の温泉や名所旧跡、名山、芝居の「相撲見立て番付」「変わり番付」が各所で発行されている。こうした知的な遊びが流行したのは、それだけ相撲が江戸期の庶民に親しまれていた証しでもあるのだろう。

(町田和洋)

 

相撲字「花」=山崎敏広さんの書拡大相撲字「花」=山崎敏広さんの書
〈注1〉
「相撲字」 江戸時代から盛んに使われるようになった書体で、歌舞伎で使われる勘亭流、寄席文字の橘流などと合わせ江戸文字と総称されることもある。勘亭流の踊るようなうねりのある文字と比べ、より直線的で骨太、力強い線に特徴がある。写真の「花」の字を比べてもらいたい。
歌舞伎座の「九月花形歌舞伎」ののぼり拡大歌舞伎座の「九月花形歌舞伎」ののぼり

〈注2〉
「千穐万歳大々叶」 興行の最終日=千秋楽までの土俵の無事と大入り満員を祈願した言葉。「秋」が火事に通じる火のつくりを使っているのを避け、縁起のいい「亀」を使った「穐」の字体を入れている。芝居でもよく使われる。

〈注3〉
「行司の格」 行司にも階級があり、立行司(木村庄之助、式守伊之助)を筆頭に三役格、幕内格、十両格、幕下格、三段目格、序二段格、序ノ口格があり、それぞれの格に合った力士の取組を裁く。身に着ける装束、履物、軍配の房の色まで格に応じたものを使う決まりがある。立行司のみ腰に短刀を携える。勝敗の判定を差し違えたら腹を切る覚悟を示すものとされる。