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ことば談話室

出世魚「ブリ」が、さらに「オオイオ」に出世する四国最果ての島へ

三木 淳

 成長に応じて名前が変わる魚「出世魚」。相撲取りが出世のたびにしこ名を変えたことに由来するらしい。出世魚は「縁起のいい魚」、とくに西日本では「年越し魚」として古くから親しまれてきた。

 

拡大高知県宿毛市沖の島沖で手釣り(一本釣り)されたブリ。体長1メートル、3~4年もの=沖の島水産提供
 その代表は「ブリ(鰤)」ではないか。木下藤吉郎、羽柴秀吉から改名し、京都に伏見城を築くまでに出世した豊臣秀吉(1537~98)は、若狭(福井県西部)でとれた塩ブリを好んで食べたようだ。その名残か、京都では今でも若狭や丹後(京都府北部)産のブリが正月のお重を彩る。
 江戸時代の儒学者で福岡藩士の貝原益軒(1630~1714)もブリのおいしさに感銘を受けたらしく、「あぶら多き魚」から「あぶら→ぶら→ぶり」に呼称が変化したと解説している。そういえば、福岡では玄界灘でとれたブリの切り身を正月の雑煮に入れる風習が今も残っている。

◇あまたの名前で

 ブリは水温15度あたりを好む温帯性の回遊魚。海流にのって夏は北海道付近へ、冬は九州・東シナ海へ移動し、約3年で80センチほどに成長する。ブリの認知度は全国でおしなべて高いが、ブリの出世段階の呼称は全国各地で異なり、計100種類以上もあるようだ。

拡大(出典:水産総合研究センター広報誌「FRANEWS」vol.33 2012年12月)
 ちなみに、水産庁所管の独立行政法人・水産総合研究センターがまとめた「ブリの名前の変化例」は右の表のようになる。

 とはいえ、同一の県内でも呼称が大きく変わることは珍しくない。例えば、「寒ブリ」が有名で、西日本方言圏と東日本方言圏の境にあたる富山県。国立国語研究所「方言の科学―ことばのくにざかい 富山―」の「富山方言の地域差」などによると、富山県で呼称が「コズクラ(コゾクラ)→フクラギ→ガンド→ブリ」と変わるのは石川県と接した県西部の話。県東部では「ツバイソ→フクラギ→チューモン→ブリ」と変わる。また、漁村部では「ツバエリ→コズクラ(コゾクラ)→フクラギ→アオブリ→ハナジロ→ブリ」などと6段階も呼称が変わる一方で、山間部では「フクラギ→ブリ」の二つ程度しか使わない所もある。
 このように、地域の食生活への貢献度や親近感の差が反映される「ブリ」の呼称変遷だが、表によると、大きく成長すれば、地域を問わず、見事に呼称は「ブリ」に集約されている。

 ところが、日本のある地方には、ブリ(おおむね体長80センチ)より大きなブリ(おおむね体長1メートル超)を「オオイオ」「オイオ」と呼ぶ地域があるという。

 「高知の魚名集」(1979年、高知県水産試験場編)によると、「オイオ」「オオイオ」と呼ぶのは、高知県内の20カ所。片っ端から電話で尋ねたところ、20カ所中19カ所の計60人ほどから「オオイオ? 知りません」「聞いたことない」「もう言わないのでは」という答えが返ってきた。
 「オオイオ」という呼称は、すでに死語なのか……と思ったその時、四国最西南端・高知県宿毛市の職員から「今も『オイオ』『オオイオ』などと呼んでいる地域はあるようです。(宿毛市の離島の)沖の島です」と連絡が入った。沖の島出身の50代男性も「大きなブリをそう呼ぶ人が少なからずいました」、市立宿毛歴史館の矢木伸欣館長も「オイオ、オオイオ……。うーん、聞いたことあるような気がしますね」という。
 なぜ、この地域で「オオイオ」の呼称が生き延びたのか? その由来と名残を求め、いざ出発!

◇ブリの上を求めて

 沖の島町は、宿毛市にある足摺宇和海国立公園の離島群だが、人が住むのは沖の島(周囲20キロ、人口207人)と鵜来(うぐる)島(同6.7キロ、同44人)の2島に限られる(人口は今年2月末の住民票ベース。実居住者はもっと少ない)。大阪市内から航空機とJR特急などを乗り継いで5時間、宿毛市街地の片島港から1日2便の市営渡船で約1時間、沖の島最大の集落・母島(もしま)に着いた。

拡大妹背山中腹から母島集落と母島港を望む。右奥の島影が鵜来島
 渡船が発着する漁港には磯釣り客相手の渡船業者や宿が点在する。時期にもよるが、ブリだけでなくグレやイシダイが釣れるらしい。島に平地は極めて少なく、漁港と山肌に張り付くように立つ住宅の間を、軽トラックが行き交える程度の細い道が結んでいた。島中心部にそびえるのは島最高峰の妹背山(いもせやま、404メートル)。漁港から山頂への道は意外に険しく、1時間では登れなかった。

 沖の島町に「オオイオ」という言葉がみられたのには、この地域の特異な歴史が関係しているようだ。「宿毛市 集落の歴史と文化財」(橋田庫欣著)と「とき連綿と~宿毛小史・宿毛の人々~」(宿毛市教委)によると、鵜来島と沖の島の領有を巡っては、戦国時代以降、伊予(愛媛県)と土佐(高知県)の間で猛烈な国境争いが繰り広げられた。とくに1645~59年には江戸幕府を巻き込んだ大きな争いに発展し、鵜来島と沖の島北部(母島集落など)は伊予宇和島藩領に、沖の島南部(弘瀬〈ひろせ〉集落など)は土佐藩領に、分割統治されることで決着した。この時、土佐藩執政・野中兼山は「弘瀬浦掟」で弘瀬の娘が他所に嫁ぐことなどを禁止した。沖の島は人の行き来が極端に限られたコミュニティーになり、その解消は難航。廃藩置県(1871〈明治4〉年)にも間に合わず、沖の島全域が高知県への編入で決着したのは1874(明治7)年になってからだった。

 それから今年で140年。母島の旅館の女将(おかみ)は「同じ島内といっても、3、4代前までは母島と弘瀬、互いの集落の間で嫁入りすらなかった。今でも交流はほとんどない」、弘瀬出身の30代男性も「母島の人の話し言葉は、語尾などのニュアンスが微妙に(弘瀬と)違うから分かる」という。
 宿毛歴史館の矢木館長は「鵜来島や沖の島では17世紀の伊予・土佐の国境争い以降、よそ者への警戒感が強くなり、より地元の言葉を大切にする風土が形成された。だから、35年前の高知県水産試験場の現地調査まで、よその地域でほとんど使われなくなった『オオイオ』という呼称が使われていたと聞いても分かるような気がする」と話す。

拡大今回訪ねた場所
 「オオイオ」「オイオ」などという呼称は古来、沖の島町だけでなく、九州の一部、紀伊半島最南端の和歌山県串本町などで、幅広く使われていたらしい(現在はほぼ消滅)。
 なぜだろうか。矢木館長は「宿毛では近世、太平洋の黒潮を介した貿易が盛んだった。薩摩(鹿児島県)や琉球(沖縄県)の船が宿毛に立ち寄った記録もある。沖の島の祭りと伊勢(三重県)の祭りは形態に酷似点があって、文化的な交流があったこともうかがえる。だから、『オオイオ』という呼称が、宿毛と黒潮で結ばれた九州や紀伊半島で使われていたとしても全く不思議ではない」と分析する。

 ところで、なぜ、沖の島沖で手釣りされたブリはうまいのか。
 沖の島出身で、釣りから水産加工、鮮魚販売まで一貫して営む「沖の島水産」社長の荒木啓弘さん(32)は「沖の島沖には1200種類もの魚がいるそうです。黒潮、(大きな魚の餌となる)小魚が多い瀬戸内海を結ぶ豊後水道の流れ、海底からわき上がる深層水、清流・四万十川から流れ込む山の栄養分などが混じり合う豊かな海だからでしょう。ここで激流にもまれたブリはほどよく脂がのって、身が引き締まる。このブリを一匹ずつ手で釣り上げ、直後に船上で活(い)き締めして出荷しています。こうすると魚は傷つかず、鮮度も保たれるというわけです」。

 なるほど。「オオイオ」の言葉は消えても、「ブリ」のうまさは健在だった。        (三木淳)