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ことば談話室

三郎――サンローじゃなくなぜサブロー?

田島 恵介

 三郎、勘三郎、柴三郎、新三郎、錬三郎……。

 これらの「三郎」が、「サブロー」「ザブロー」と読まれるのは、あらためて考えると、ちょっと不思議です。「三」はふつう、「サブ」とは読まないはずなのに、この「ブ」は一体どこからきたのでしょうか――。

 ◇日本で母音が付いて「サム」

 「三」の音読みは「サン」。現代中国の北京語では、高く平らかに「サン」(sān)と発音します。音読みは、中国で使われていた音に基づくものです。少し詳しくいうと、そのほとんどが、4~6世紀ごろの江南地方(長江の南岸地域一帯)の音や、7~8世紀ごろの北方の長安(現在の陝西省西安市)近辺の音を反映しています。

 実は、「三」の8世紀ごろまでの中国語音は「san」ではなく、大ざっぱには「sam」という音でした。子音の「m」で終わっていますね。韓国語の「삼」(sam)=「三」は、中国語から輸入されて、それがそのまま残ったものです。

 日本語でも、当初この「m」は「ン」(n)とは区別されていた、と考えられています。そのなごりは、「三位一体」という熟字の読みかたにみられます。「さんいいったい」ではなく、「さんみいったい」と読みますね。

 これは、「かんおん(観音)」(kan+on)が「かんのん」(kannon)となるのと同様の現象です。このことから考えると、「さんい(三位)」(san+i)は「さんに」(sanni)とでもなりそうなものですが、「さんみ」(sammi)です。ここに、「m」という音が出てきました。これこそがまさに、「三」が「m」で終わる音節字であったことの証拠なのです。

 ただし日本語話者が、「三」を韓国語のように「sam」と発音していたかどうか(また、たとえそう発音していたとしても、いつごろまでそのように発音していたのか)は、文献だけでは判断できません。

 というのは、日本語は古来、「子音」と「母音」とがセットになって音節をつくるのが基本だからです。たとえば「カ」(ka)という音節は、子音kと母音aとがセットになっています。したがって、「sam」(sa+m)のままでは発音するのが難しい。もっとも、外国語を学んだ僧侶などは中国語音に近づけて発音していたのかもしれませんが、大方の日本語話者にとっては発音しにくい。

 そこで、「m」の後ろに母音を置くことで、「子音+母音」のペアが成立し、日本語の音節として安定します。しかし、ひとくちに母音といっても様々です。現代日本語(共通語)にも、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」の五つがあります。特に音節末が「m」となる場合には、母音「ウ」(これを以下「ɯ」と表記します)を置くのが基本となりました。つまり全体で、「ム」(mɯ)と発音するようになりました。

 他の母音が置かれることもあったのですが、定着したのは「ɯ」です。なぜ「ɯ」が選ばれたのでしょうか。その理由は、発音のしやすさに関わります。まず「m」は、実際に「マ」(ma)などと発音してみればわかるように、唇を合わせて出す音です。一方「ɯ」は、「ア」や「オ」よりも、発音する際の口の開きが狭い。唇を合わせたあとに、口の開きの狭い母音をもってくると、発音時の「省エネ」になる。そのため、「ɯ」が選ばれやすかったと推測されます。

 ◇「ム」が「ブ」と交代

 よって「三」は、ある時期まで日本語としては「サム」と読まれていたと考えられます。 この「サム」こそが、「三」の字を「サブ」と読む理由につながります。すなわち、「サム」の「ム」(mɯ)の mが bと交代して、「サブ」(sabɯ)になったのです。

 この現象は、日本語でしばしばみられます。「さみしい⇔さびしい」、「けむる⇔けぶる」、「かむり⇔かぶり」、「さむい⇔さぶい」など、「m」「b」のどちらでも通用することばがあります。

 次の例もそのひとつです。

 かくして相互の思わくは、相互の間の秘密として葬(ほうぶ)られてしまった。(夏目漱石「それから」十四)

 これは、「m」と「b」とが性質の近い音であることによって起きる現象です。「m」については先述のとおりですが、「b」もやはり唇を合わせて発音します。違うのは、「m」を発音する際には、鼻からも息を出しているという点です。だから、鼻をつまんで「マ」(ma)と発音すると、くぐもって聞こえるのです。「バ」(ba)の方は、鼻をつまんでも明瞭に発音できます。

 ◇日本で合流、遅れて中国でも

 日本語では、漢字音節末の「m」と「n」との区別は次第に失われ、14世紀半ばごろまでには、「三」が「サン」と読まれるようになりました。

韻鏡から拡大「磨光韻鏡」から。天明七(1787)年刊の再刻本=田島恵介架蔵
 ただし、学問の世界では、この区別が長らく意識されていました。

 延享(えんきょう)元(1744)年に刊行された、「磨光韻鏡(まこういんきょう)」という書物があります。浄土宗の僧侶・文雄(もんのう)が編んだものです。

 ここに出てくる「三」の字の項目を見ると、「サン」という読みのほかに、「スアム」という読みも記されています。これは、「三」が日本ですでに「サン」と読まれるようになっていたものの、中国語音は「スアム」(≒「サム」)であるべきだ、という一種の規範意識があらわれたものと考えられます。

 ちなみに中国本土の北方では、やや遅れて、15世紀初めから16世紀半ばにかけて「m」は「n」へと合流し、「三」の発音は「san」に落ち着いた、と考えられています。しかし、現在でも、一部の中国語方言では音節末にmが残っています。文雄も、その区別をとどめた方言を耳にしていた可能性が高いといわれます。

(田島恵介)