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ことば談話室

「言語島の言語島」を訪ねて~奈良県十津川村と北海道新十津川町

三木 淳

拡大北海道新十津川町の観光ポスターにも使われた風景。名峰ピンネシリを背景に、JR札沼線の普通列車が終着駅の新十津川まで走る。1両編成で1日3往復。JRの終着駅に発着する列車本数では全国最少だ=新十津川町弥生、8月2日午後0時35分撮影
 北海道のほぼ中央にある新十津川町は、明治時代に水害で壊滅的な被害を受けた奈良県十津川村の人々が入植した町として知られる。北海道の市町村名の約8割はアイヌ語に由来するが、明治維新後に本州以南から移住した人々がふるさとの地名を付けた場所もある。十津川村と新十津川町もその一例だが、引き継がれたのは地名だけではない。「言語島(げんごとう)」としての言葉・十津川弁もそうだ。

 言語島(または「言語の島」)とは言語学の用語で、長い間周囲との交流が隔絶されたり、別の言語を話す集団が大量に移住してきたりして、周囲と異なる言語が海中にある孤島のような状態で存在するエリアをさす。国内では、石川県石川郡白峰村(現在は白山市の一部)や静岡県安倍郡井川(現在は静岡市の一部)、長野県下水内郡栄村秋山郷などが知られている。いずれも昔は交通の便が極めて悪く、人の往来が少なかった秘境にある。
 十津川村も国内有数の言語島の一つ。同じ奈良県でも、県最北端にある奈良市の言葉は京都や大阪とニュアンスが近いが、県最南端の十津川村の言葉は「今尚古語を存し、一般村民のアクセントが近畿系統に似ず、関東方面の東方アクセントに属する」(「十津川讀本」十津川村教育會著、1938年)とされる。

 

◇「言語島」十津川村

 十津川村は紀伊半島の山岳地帯にある。面積は672.35平方キロ(琵琶湖とほぼ同じ)。村の面積としては国内最大だが、うち96%は森林が占める。
 歴史は古く、平安後期の古文書「大和金峰山寺牒」(1142年)には「遠津川郷」として登場する。中央からはよほど遠い地域と思われてきたのだろう。太平記に「鳥も通わぬ十津川の里」という記述すらある。

拡大今回とりあげる地域
 十津川郷の人々は独自の生活文化を育む一方で、大きな争乱にたびたび関わった。壬申の乱(672年)や保元の乱(1156年)、大坂冬の陣(1614年)など、歴史の節目で活躍し、権力者と交流している。「恩賞をもらわず、謙虚で忠誠心が高い」と尊ばれ、いつしか「十津川郷士」と呼ばれるようになり、江戸時代には天領とされて無税地の厚遇を受けた。また幕末の1864年には、孝明天皇の内勅で高等教育機関・文武館(現在の奈良県立十津川高校。現存する奈良県最古の高校)が設立されている。
 十津川弁の「関東なまり」はどこから来たのか。十津川村教育委員の松實豊繁さん(73)は、中世以前の東国武士の影響を指摘する。「明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で村内53寺すべてが廃され、大水害で村内の民家の蔵も流された。村の歴史の裏付けとなる古文書がほとんどなくなったため、仮説になるが」と断りつつ、「今でも村には千葉、玉置、則本、深瀬など『関東系』の姓がある。これは、都で敗れて十津川にたどりついた東国の武士がいた名残ではないか」と話す。十津川は昔から剣道が盛んだが、それも「十津川に流れ着いた東国武士が『いつか都で再起しよう』と剣道の練習を続けた影響では」と推察する。

◇十津川から新十津川へ

 奈良県十津川村の人々が北海道新十津川町へ移住するようになった直接のきっかけは、1889(明治22)年8月の大水害だ。死者168人、負傷者20人、全半壊と流出家屋610戸。水田の50%と畑の20%も流出し、3千人以上が生活基盤を失い、村の4分の1の集落は全滅した。
 ここで時の権力者との縁が生きた。幕末の十津川郷士の活躍を知る東京・明治新政府の幹部らの働きかけで、被災のわずか2カ月後、北海道移住の請願が閣議で可決された。入植者としては破格の扱いで、旅費や開墾用地、農機具や種子なども支給された。十津川村の隣村・天川村と大塔村の計114戸約560人の北海道移住申請が却下されたのとは対照的だ。

拡大屯田兵屋の再現展示=北海道新十津川町の町開拓記念館
 十津川村の被災者600戸2489人は10月、神戸から船で小樽へ出発。老人や子どもは囚人に背負われて雪の中を進み、雪解けのトック原野(現在の新十津川町)にたどり着いたのは翌1890(明治23)年6月だった。家屋となる屯田兵屋は150戸しか完成しておらず、1戸に移民4世帯の家族十数人が押し込められた。真冬は零下20度以下になる自然環境と燃料の煙が体をむしばんだ。悪性の風邪もはやり、1891(明治24)年7月までに69人が亡くなった。
 それでも入植者は泥炭地にある原生林の開墾に励み、子弟の教育充実にも奔走した。大正時代には石狩川の治水事業も行い、干ばつや冷害にも強い水稲品種「玉置坊主」も開発。100年の時を経て、新十津川町は道内有数の米作地帯となった。
 町内には、頑張る気持ちを込めた「総進」や奈良県の旧国名「大和」、奈良県南部の郡名「吉野」という地名が残っている。

◇「言語島の言語島」北海道新十津川町

 「言語島」奈良県十津川村から北海道新十津川町への移住は、北日本10県からの移住が約7割を占めた北海道で、さらに新たな「言語島」、いわば「言語島の言語島」の形成を促した。国内では極めて珍しい地域ということで、新十津川町は長年、言語学者などのフィールドワークの舞台となってきた。
 1979~80年に文部省(当時)が行った「各地方方言収集緊急調査」では、新十津川町在住の明治生まれ49人、大正生まれ94人、昭和戦前生まれ166人、昭和戦後生まれ107人、小中学生74人の計490人に、語彙22例、文法16例の認知度と使用頻度を尋ねている。
 たとえば、関西で広く使われる「コソバイ」(標準語で「くすぐったい」)は「戦前生まれ」以前の認知度は50%以上だが、小中学生は10%未満。西日本で多用される「オル」(標準語で「いる=居る」)は、十津川村出身者の次に数が多い富山県出身者を含めて大正生まれで50%近くが使っていたが、小中学生は数%に激減していた。「北陸、四国、近畿方面の移住者が使用し、二・三世に根強く温存されていたのが、若年層で急激に削減に向かっている」と結論づけられている。
 89~90年には、新十津川町が冊子「十津川言葉」(榊本利清著、75年発行)を参考に、69年生まれの青年3人に聞き取り調査をした。それによると、「十津川系の者(奈良県十津川村をルーツに持つ新十津川町民)でも、60歳以上は十津川方言を理解するが、50歳以下はほとんどその方言を知らない」「名詞には方言の残存がみられない。わずかにゴンパチ(タデ科の多年生植物『いたどり』のこと)は知っているが、形容詞・形容動詞、副詞にややその残存をみる」程度とされている。
 そしてついに、91年の「新十津川百年史」には、「(移住者の)十津川ことばも、その特殊性は失われて一般化し、所謂(いわゆる)北海道ことばとしては、前述のように内陸部の農村ことばである」と結論づけられるに至った。

 私も新十津川町を訪ねて、「言語島」としての十津川弁の認知度や使用頻度を尋ねることにした。
 参考にしたのは「十津川方言集」(奈良県十津川村教育委員会編)。47年に38歳で亡くなった村出身の元毎日新聞記者・千葉政清氏の聞き取り調査の遺稿を元に、村教委が96年に再編集した冊子で、およそ3千の十津川方言が記されている。ほかに、十津川村出身で新十津川町へ移住した元町長の中垣隆政さん(在任42~46年)が編集した「遠津川方言集」(同町発行、78年)。やはり十津川方言2千語以上が収録されている。

拡大後木元一さん。後ろは剣道の練習をしていた旧尚武館(旧武道場)
 新十津川町の「移民3世」で生き字引のような存在の後木元一さん(89)に話を聞いた。後木さんの祖父は十津川村那智合(なちあい)出身で、新十津川村(当時)へ移住して第10代の村長も務めたという。若いときは剣道で鍛え、農業一筋。記憶も鮮明で滑舌も明瞭だが、発音は標準語に近く、十津川弁のなまりはない。
 たとえば、十津川方言の「おのら」(己等)は代名詞で、おのれ、おまえたち、あなたの意。私が「この言葉を普段使いますか」と尋ねると、「うーん」と後木さん。動詞の「こたげる」(刮げる)は、まぜかえす(奈良県吉野郡)、さがす(十津川村)の意だが、「使わないなあ」。ほかにも「おじいさんは言っていたかもなあ」「言われたら意味は分かるが……」という言葉が続いた。
 そばにいた新十津川町教委の社会教育グループ長・武田晃典さん(48)も「私は北海道小樽市出身ですが、新十津川町の人と話していて、言葉のニュアンスで違和感を覚えたことはないですねえ」。後木さんは「新十津川に住んでいる孫(移民5世)もまず十津川方言は使わないし、分からないのではないか」という。
 北海道新十津川町における奈良・十津川弁の「言語島」はほぼ消滅してしまったようだ。もっとも、十津川村出身者が新十津川町の人口に占める割合は、60年代半ばに1割に減っている。十津川弁を使う土壌が全くない北海道で、100年以上も十津川弁が残っているほうがむしろ不思議なのかもしれない。
 後木さんは数回、奈良県十津川村を訪れているというので、現在の十津川方言の印象を尋ねてみた。「北海道に住む我々からすると、十津川弁は仲間内の言葉というか、ちょっとぞんざいな感じがする。偉い人があまり周囲にいなかったから、(敬語などの)必要がなかったのではないでしょうか」という。この見方は「十津川讀本」(38年、奈良県十津川村教育會著)に「(十津川)村民の階級意識はいよいよ薄く……十津川人の言語が粗野で敬語が乏しい」とあるのと符合しているようにも思われた。

 十津川弁は、奈良県十津川村では今も健在だ。例えば、語尾に「~じゃあじゃあ」「のら」という言葉を使う。村教委や役場関係者によると、いずれも同意を求める言葉で、標準語の「そうそう」「(そう)だよね」の意だそうだ。
 地方では、地元の方言を嫌う若者が少なくない。結果的に方言が消えていく速度が上がっている。でも、元祖「言語島」の十津川村では、働き盛りの世代で十津川弁を使う村人が少なくないことも分かった。「奈良市の大学に進学した時は、友達の言葉が違って驚いた」(30代女性)、「大阪から村に来た観光客の言葉は明らかに違う」(40代男性)など、いまだに村外の言葉に違和感を覚える人が一定数いる。

◇深まる「母村」と「分村」の交流

 北海道新十津川町で「十津川方言」はほぼ途絶えたが、奈良県十津川村との交流は濃密になっている。
 新十津川町の人は、十津川村のことを尊敬の念を込めて「母村」と呼ぶ。新十津川町の小中学生のうち希望者30人ほどは毎年夏、3泊4日で十津川村へ「母村訪問」をし、古老から昔話を聞く。十津川村の中学3年生は毎年秋、「分村」した新十津川町を修学旅行で訪れる。
 毎年6月20日に行われる新十津川町の開町記念式典には、十津川村長や村議長が赴く。新十津川町職員3人も毎年、十津川村を訪れる。新十津川町旗は、横長の菱形に十文字が入った「菱十」。これは奈良県十津川村の村旗と同じ意匠だ。
 十津川村の玉置神社から分霊された新十津川町の新十津川神社(旧・玉置神社)の秋祭りには十津川村民も参加する。十津川郷士の流れをくんで剣道が盛んなのも両町村共通で、有志による「剣道交流」も約5年ごとに続く。東京では年1回、両町村出身者らが集う「関東十津川郷友会」という交流会もある。

拡大土砂崩れで発生した土砂ダム=2011年9月6日午前、奈良県十津川村、本社ヘリから、小玉重隆撮影
 今年は、十津川村の十津川高校(旧文武館)が幕末の創立から数えて丸150年。10月31日には十津川村で記念式典が開かれる。ここには、新十津川町民も出席する予定だという。
 十津川村の「道の駅・十津川郷」では、地元で採れた川魚やキノコ、木工品と並んで、新十津川町産のアイスクリーム9種類(税込み260円、通年販売)が人気を呼んでいる。カボチャ味やリンゴ味、ササ(抹茶のような味)など、奈良県ではまず味わえない北国の味が評判だ。新十津川町の「道の駅」にも川魚の加工品などが売られていた。

 2011年9月、紀伊半島は大水害に見舞われた。奈良・和歌山両県で死者61人、行方不明18人。十津川村では死者4人、行方不明7人。濁流にのまれ、10㌔下流で発見された人もいた。道路も各地で寸断され、谷間には土砂や泥水がたまった。そんな「母村」のピンチを救ったのは、「分村」新十津川町だった。
 新十津川町は職員3人を2カ月間、被災直後の十津川村に派遣した。村関係者は「温泉復活に向けた土木業務や、災害救助法の申請書類業務、点在する集落の高齢者の見回り対応などをやってもらった。災害直後で事務量が膨れあがった村役場で本格的に業務をこなしてもらって助かった」と振り返る。
 復興の合言葉は「がんばろうら十津川」。十津川弁で「みんなで一緒にがんばりましょうね」という意味だそうだ。

(三木淳)