メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

人権・校閲

こちら人権情報局

原発ジプシー 比喩としての「ジプシー」考

門田 耕作

〈特に注記のない場合、新聞記事の日付などは東京本社最終版です〉
〈asahi.com内の記事へのリンクについて=日付の古いものは表示されないことがあります〉

拡大現代書館から出た「原発ジプシー」(左)と講談社文庫の「原発労働記」
■原発ジプシー

 福島第一原発の事故を受け、ライター堀江邦夫さんの旧著「原発ジプシー」が、講談社文庫から「原発労働記」とタイトルを変え、現代書館からは原題のまま増補改訂版の単行本として、それぞれ復刊されました。文庫版では改題の理由を「内容の違いゆえ」としか記していませんが、単行本のあとがきによると「『ジプシー』という言葉が差別語だとして、『原発ジプシー』という書名を改めるべきだ、という声があることは私も承知している」が、もとのタイトルのまま発刊してくれるよう現代書館に頼んだそうです。

 その理由として、「原発ジプシー」という言葉が「私の造語などではなく、一九七〇~八〇年代にかけて実際に広く使われていたもの」で、「歴史的な意味のあることば」だというのが一つ。言葉の置き換えや消去は「あきらかに歴史=時代に対する改竄であり冒涜では」との主張です。もう一つ「最大の理由」として挙げているのが、「原発を渡り歩く彼ら日雇いの下請け労働者たち自身が自嘲とも悲しみともつかぬ思いをそこに込めて、自らをこの言葉で表現していた事実を私たちは見逃すわけにはいかない」という点。原発労働者の「自称」には、ロマの人びとへの「共感とも同情ともつかぬ響き」が含まれているからだといいます。

 これについて、最近「差別語・不快語」(にんげん出版)を著した小林健治さんは「ウェブ連動式管理職検定」のサイトのコラム「連載 差別表現/『原発ジプシー』という書名について」で、「原発ジプシー」が出版された70年代から80年代当時、「ジプシー」という言葉の差別性が深く理解されていたとは言えず、「後付けの理由は、単なるノスタルジックで自己満足的な、『居直り』と受け止められかねない危険性があります」と指摘。また、自嘲的なつぶやきについても「被差別マイノリティを自己の置かれた立場の比喩的表現として引っ張り出してくる必要があるのか、という、比喩の対象とされる側の思いを無視した傲慢さがうかがえます」と書いています。

 そのうえで小林さんは、堀江さんの本を「全く新鮮さを失っていない」「是非読まれるべき本だ」とし、「『原発ジプシー』というタイトルは、今日より輝きを増していると、著者自身の言葉で一言語るだけで充分」と語っています。タイトルを変えた出版と変えなかった出版が、「ジプシー」という言葉にいまも潜む複雑な政治的、社会的、文化的な状況を映し出したと言えます。

 「ジプシー」と呼ばれる人たちは、インド北西部起源で西方へ移動し、現在では欧州を中心に世界に住む少数民族です。英語のGypsyが「エジプト人」のなまりでエジプトから来たという誤解に基づいたものであるように、その呼称は自称ではありません。彼らは異なる容貌や生活習慣の違いなどから「流浪」の先々で迫害され、第2次世界大戦中にはナチスによって大量虐殺されました。

 戦後、「ジプシー」が差別する側からの呼び名であることから、彼ら自身が「人間」の意の自称「ロマ」を使うことを決め、国際社会も公式文書で「ロマ」を使用するようになりましたが、近年でも不法滞在者の取り締まりや移民規制の一環としてフランスやイタリアでは出身国へ送還されたりするなど、ロマ民族への差別は続いています。

拡大岩波新書「ジプシーを訪ねて」
 現在、新聞社や通信社の中には、市販の用語ハンドブックに「『流れ者』『放浪者』の意味で『ジプシー選手』などとは使わない」(共同通信社)などと明記しているところもあります。朝日新聞も同様の運用をしており、「ジプシー」という言葉を紙面で使う時は、「ジプシーと呼ばれ差別されてきたロマ民族」などと「ジプシー」が差別的呼称であることに必ず言及することにしています。

 一方、「ジプシー音楽」は紙面でも言い換えませんし、自らジプシーを名乗る音楽グループ「ジプシー・キングス」などの固有名詞はそのまま使います。最近では、差別の歴史を踏まえた上で「ジプシー」を使うケースも増えつつあるといいますが、音楽評論家の関口義人さんは「ロマ」と呼ばれることを拒否する人たちも多いことについて、「『ジプシー』などの表現の中に、長く差別や偏見と闘ってきた民の闘争の記憶と、それに打ち勝って来た矜持にも似た感覚が宿っているケースが多いのだと私は思う」と述べています(「ジプシーを訪ねて」岩波新書)。

 「ジプシーにようこそ!」(幻冬舎)を著したたかのてるこさんは、実際にロマ人を訪ねてホームステイした経験から、彼らのいい面悪い面を包み隠さず描いていますが、あとがきで「彼らをどう呼ぶかは悩みましたが、『ロマ』という呼称を広めるにも『ジプシー』という名前で橋渡しする必要があるだろうし、彼らの文化やスピリットを表現する愛称として生き残ってほしいという願望も込めて、『ジプシー』で通させてもらいました」と書いています。

拡大幻冬舎「ジプシーにようこそ!」
 出版や新聞など、メディアのことを書きましたが、ネットなどで少し調べてみただけでも、退会や休止制度を使って生協などを乗り換える「宅配ジプシー」、どの化粧品を使うのがいいか決まらず次々化粧品を取り換える「コスメジプシー」、肌に合う洗顔料を探し回る「洗顔ジプシー」、相性のあう美容院がなかなか見つからない「美容院ジプシー」など、「ジプシー」をさまようイメージの比喩で使う表現は、いまも堂々と通用しているようです。これらの使用の奥底にロマの人たちへの共感や共闘の意味があるはずもありません。

 ジプシー音楽に詳しい関口さんは、音楽番組に出演する際に、放送では「ジプシー」という表現を避けるよう釘を刺されたことを「慣例に従うといった役所的事なかれ主義」と批判しています。堀江さんが、「ジプシー=差別語」としてその言葉を排除したり、他の言葉と置き換えたりする発想を「短絡的」と批判していることも同じでしょう。

 ジプシー楽団の記録映画「ジプシー・キャラバン」の監督ジャスミン・デラルさんが「みんなジプシー音楽は好きでも、関心はその音楽だけで、コンサートが終わると忘れてしまう。ふだんの彼らについては偏見にあふれている。彼らにも家族があり生活があることを伝えたかった」(朝日新聞08年1月17日窓)と言っているのは示唆的です。「差別されてきた」と冠するだけでよしとしていないか、私たち新聞も自戒しなければなりません。

(門田耕作)