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人権・校閲

こちら人権情報局

在日コリアンの物語を超えて――「パーマ屋スミレ」

拡大作・演出の鄭義信は、「失われつつある物語を演劇として記録にとどめたい」という=2月16日東京本社版夕刊3面
 鄭義信の作・演出で、1960年代の九州の炭鉱町に生きる、在日コリアンを中心とした人々を描いた「パーマ屋スミレ」(東京・新国立劇場、上演は3月25日で終了)を見た(3月16日、せりふの引用は「悲劇喜劇」2012年4月号掲載の台本から)。

 中心人物である成勲は、「騙(だま)されて、朝鮮から連れてこられたんやなかね」と問われ、「最初はそうやった……ばってん、今は坑夫がおれん天職じゃち思うようなった」と答えている。時代設定は1965年ごろ、「もうここで暮らして30年」と言っているので、1930年代半ばに日本に来たと思われる。

 国家総動員法による労務動員が実行に移されたのは1939年だが、それ以前に、「日本内地の炭鉱が仕事場さえあればという朝鮮人を連れてきて安い賃金のもとで酷使した」「詐欺的募集」(「朝鮮人強制連行」岩波新書、35ページ)といった例があり、「植民地支配下の朝鮮農村の経済的疲弊のなかで生きる道を求めて渡日を選択した人々」(同、217ページ)もいた。

 「在日一世の記憶」(集英社新書)には、少し年代は違うが「大阪で鉄道の仕事がある」とだまされて北海道の炭鉱に連れて行かれたという男性の話が出てくる(同書64ページ)。成勲の場合も、似たようなことがあったのだろうか。

 戦争が終わってからも、日本に残った理由について劇中では、「戦後、炭鉱で働いていた多くの朝鮮人たちは祖国に帰っていきました。けれど、さまざまな事情で帰らなかった人々、帰れなかった人々」とだけ説明される。「在日一世の記憶」には、帰ろうとしても旅費さえ工面できなかった、帰っても土地も仕事もないので残ることを選んだといった例がみられる。

 この劇には、朝鮮人をあからさまに差別するような日本人の敵役がでてくるわけではない。ただ、成勲が今は日本国籍であることが明かされ、「炭鉱で朝鮮人ば雇わんこつになったけん、しょんなかけん、日本籍ばとって」と、つらい決断があったことをうかがわせる。朝鮮人を雇う炭鉱もあるが、そこではより危険な作業をさせられるらしい。1954~65年に日本国籍を取った在日コリアンの数は毎年2千人台から4千人台、65年時点の累計は3万7千人余りである(「在日コリアン人権白書2011年版」社団法人大阪国際理解教育研究センター)。

 炭鉱で働く者たちの運命は、坑内で起こった大事故によって大きく変わる。命が助かった者も、一酸化炭素(CO)中毒などで、心や体に深い傷を負ってしまう。CO中毒で体の動きがままならなくなった成勲と、家族や仲間たちは互いに助け合おうとするのだが、弱い立場におかれた者同士は、どうしようもなく傷つけ合ってしまう。

 それに対して、組合や会社といった大きな組織は、個人の尊厳を守ってはくれず、頼みの綱として闘い、勝ち取ったはずのCO中毒救済法も、結局はさして役に立たない。この事故のモデルになっているのは、1963年11月、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で起きた炭塵(たんじん)爆発と思われる。死者458人を出し、839人がCO中毒患者と認定された。21歳で被災した受川孝さんは、重い後遺症で45年近く寝たきりの生活を送り、2008年4月に亡くなった。

 その後も闘いは続いている。09年12月、患者家族らは、治療する病院の状況改善を求めて、厚生労働省の担当者と交渉した。10年11月、熊本県荒尾市で、患者家族らが抗議集会を開いた。いずれも朝日新聞では、地域面の記事にとどまり、残念ながら全国的に大きく報道してはいない。

 劇中では、炭鉱の閉山により、新天地を求めて家族はばらばらになっていく。その中で炭鉱町に残ることを選んだ成勲と妻・須美に、桜の花びらが散りかかるラストシーン。在日コリアン一家の物語を超えて、人間の悲しさと愛(いと)しさが伝わってくるのは、この劇がその後の経済繁栄とバブル崩壊、そして「さらに深い喪失感」を経験した現在からの回想という形をとっているからだろうか。

(松沢明広)