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人権・校閲

こちら人権情報局

障害者福祉に力尽くした「現場監督」

山村 隆雄

寛仁さま逝去拡大2012年6月7日付 東京本社版朝刊1面
■寛仁さま逝去

  三笠宮崇仁(たかひと)さま(96)の長男で天皇陛下のいとこにあたる寛仁(ともひと)さまが、6日午後、多臓器不全のため東京都千代田区の杏雲堂病院で亡くなられました。66歳でした(6/7朝日新聞)。

 高校では応援団長、大学ではスキー部でキャプテン。卒業後は英オックスフォード大に留学、1970年から1年半、札幌冬季五輪の組織委員会事務局に勤務するサラリーマンも経験しました。ラジオの深夜放送に出演して全国の若者に語りかけるなど、型破りな存在でした。

 生涯を通じて、障害者福祉の「現場監督」として障害者の社会福祉活動に取り組みました。「徹底的に障害者らとつきあい、外にどんどん連れ出して一緒に酒を酌み交わした」そうです(6/7朝日新聞「評伝」)。  「障害者にかわいそうだとか、哀れみを持つのはやめてほしい。努力をし、いいサポーターが入れば、何でもできる」というのが持論でした(6/7日経新聞「春秋」)。

 仙台の社会福祉法人「ありのまま舎」の総裁を長く務めました。「ありのまま舎」は筋ジストロフィー症だった山田富也さん(2010年死去)が立ち上げ、障害者が暮らすホームや難病ホスピスの運営や、様々な啓発活動をしています。寛仁さまは協力を惜しまず、寄付金集めのため2日間で計6回の講演をしたこともあったそうです(2010/10/4夕刊「窓」)。昨年3月の東日本大震災では、地震の直後に「何かあれば、すぐに言ってほしい」と白江浩・常務理事(57)の携帯電話に連絡して食料を届け、2カ月後には施設を訪問しました(6/7宮城版)。

 名古屋市昭和区の社会福祉法人「AJU自立の家」は、寛仁さまが「障害者が自分の力で生活する『障害者の下宿屋』をつくろう」と呼びかけて90年に設立されました。専務理事の山田昭義さん(69)は「合理主義者で、『しがらみにとらわれるな。障害者のために事業をやれ。間違っても別のものに振り回されるな』と指導してもらったことが忘れられない」と言います(6/7名古屋本社版)。

 

皇籍離脱拡大「社会福祉に専念したい」と皇籍離脱を申し出たこともあった=1982年4月24日付 東京本社版夕刊1面
 障害者のためのボランティア支援団体「柏朋会」の会長も務めました。監事の松友了さん(64)は「有償ボランティアという考え方もあるが、『ボランティアは無償で身をていしてこそ尊い』と原理原則を大事にした人だった」と述べています(6/7毎日新聞)。

 障害者スキーにの普及にも携わり、79年世界スキー指導者会議では障害者スキーの総監督として合宿などにも参加しました。90年2月に開催された全国身体障害者スキー大会山形米沢大会でも会場を訪れ、スキー指導などに当たりました(6/7毎日新聞山形版)。

 85年から福岡県飯塚市で毎春開かれる「飯塚国際車いすテニス大会」の大会名誉会長にも就任。第1回大会では始球式、第4回大会では障害者とペアを組んでミックスダブルスの試合をしました(6/7毎日新聞西部本社版)。

 型破りな言動が世間を驚かせたこともありました。82年4月、寛仁さまは「障害者福祉など社会活動に専念したい」という理由から皇籍離脱を申し出ました(その後翻意)。当時疲れがたまっていたなどの事情もあったようですが、障害者福祉にかける思いがそれほど強かったということもあるのでしょう。

 気さくな人柄で「ヒゲの殿下」と慕われた寛仁さま。障害者の社会福祉に多大な足跡と、多くの人に鮮烈な印象を残した生涯でした。
 謹んで哀悼の意を捧げます。

(山村隆雄)