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人権・校閲

こちら人権情報局

ランチ難民は「難民」じゃない!(下)

門田 耕作

■「難しい民」に否定的なイメージ

  「ネットカフェ難民」や「ランチ難民」のように、行き場のない人、困っている人の比喩で使われることが多くなった「難民」という言葉。「世界難民の日」の6月20日、東京・原宿で学生たちが開いた難民問題を知るイベントのトークショーで、「難民という言葉が、いつか辞書からなくなってほしい」と語ったイラン人女優のサヘル・ローズさんは、たまたま紹介されたネイリストが難民だったことから関心を持つようになったそうです。「ランチ難民」ではない、本当の難民があなたのすぐ近くにもいるはずです。

難民カフェ拡大難民申請者と支援者らの交流の場「難民カフェ」。手前の黒人男性は5月に仮放免されたばかり。家族が殺された場面を思い出すので、と詳しい話は聞けず、出身国さえ書くことを了解してもらえなかった。別の男性は同国人のネットワークで自分の存在が知られることを恐れ、お国料理の店でも働けないでいるという=6月18日、大阪市北区、門田耕作撮影
 7月7日、大阪でも、東京の集会を主催したJ-FUNユースの関西メンバーや難民支援団体などが、「WОRLD なんみん DAY」を催しました。難民の人たちとともに暮らす街をめざすイベントには、難民や難民認定を待つ当事者も参加、大阪市北区・中崎町地域のお年寄りや子どもたちが、難民たちの祖国の料理や文化に親しみました。

 共催団体の一つ、RAFIQ(在日難民との共生ネットワーク)の共同代表田中恵子さんによると、実行委員会で「難民」という言葉についても議論し、漢字には「難しい民」という否定的なイメージがあるので、イベント名は平仮名の「なんみん」にしたそうです。
 
 確かに「難しい民」とはあまりいい字面ではありません。では「難民」という言葉は、いつごろから使われるようになったのでしょうか。

■戦後、条約とともに広まった言葉

 「難民を助ける会」特別顧問の吹浦忠正さんは著書「難民―世界と日本」(1989年、日本教育新聞社)で、1943年に出版された「明解国語辞典」(三省堂)が「辞書の中では〈難民〉という項目を設けた一番古い例と思われる」との国立国語研究所の見解を紹介しています。しかし、その語釈は「避難の人民」としかありません。吹浦さんは、作家の宮尾登美子さんが戦後ほどなく結核にかかり、旧満州(中国東北部)の避難所で過ごした1年間を「難民生活」と表現(88年1月10日付朝日新聞)していることなどから、「敗戦による中国からの引き揚げ者とともに入ってきて広まった言葉と思われる」としています。

 1951年に難民条約が国連で採択された後、「現代用語の基礎知識」(自由国民社)は、53年発行の昭和29年版で初めて、UNHCRの前身である国際難民機構(IRO)に18カ国が加盟したことを述べるために「難民」という言葉を紹介したと、吹浦さんは指摘しています。

 戦後の代表的な国語辞典「広辞苑」はどう説明してきたでしょうか。
 
 広辞苑には、55年発行の初版から「難民」の項目があります。「(1)困窮する人民。(2)戦争・天災などのため困難に陥った人民。ことに、戦禍・政難を避けて故郷を逃れた亡命者」と語釈するのを吹浦さんは、「その結果、国外に逃れた」ということに触れておらず、難民条約による「難民」の定義に比して「必ずしも正確とは言い難い」としていますが、83年の第3版からは「難民条約」の説明が付記され、91年の第4版からは「故国や居住地外に出た人」という説明が加わっています。

 国語辞典の中には、「戦災・震災や生活困窮などで住んでいた所を失った(に居られなくなった)人びと」(三省堂「新明解国語辞典」第7版、2012年1月)と、かなり広い意味を持たせているものもありますが、原発事故や津波で故郷を離れざるを得なかった人たちや、風水害で住んでいた我が家を失い災害住宅などに暮らす人たちのことを「難民」とは言わないように、日本では事実上「難民」は、政治や宗教上の理由で迫害されて外国へ逃げた人という、難民条約上の難民に相当する言葉として、戦後使われてきた言葉といえるでしょう。

■「帰宅難民」など比喩的用法も

 ところが最近、一つの大きな変化がありました。一部の辞書の「難民」の項目に、比喩的な用例が加えられたのです。東日本大震災の際、東京など都市部の交通網が寸断され、家に帰れず、駅や公共施設で夜を明かした人たちを称した「帰宅難民」です。朝日新聞紙上でも、95年の阪神大震災直後から登場する言葉ですが、阪神大震災は発生が未明だったため、「帰宅困難」ということはあまり問題にされず、むしろ、同じような大震災が起きたとき、都市部からどう帰宅するかを考える中で使われてきた言葉でした。

 それが東日本大震災で、まさしく多くの人たちが「帰宅難民」状態を経験し、2011年の新語・流行語大賞のトップテンにも入ったこの言葉は、それまで手近な辞書にはなかった用法です。例えば、「戦禍・迫害等を避けて流浪する人民」と説明していた岩波国語辞典は、震災後の11年11月に改訂した7版新版で「比喩的に『帰宅難民』(災害時に勤め先などから帰宅できない人)のようにも使う」という記述を加えています。三省堂国語辞典も11年11月に6版を刊行、新たに俗語として「[病気の治療などで]見放されて途方にくれる人たち。『がん難民』」とともに、「帰宅難民」を採録しました。

 震災後にまだ新版を出していない広辞苑の岩波書店辞典編集部に「帰宅難民」の用法を採録する予定があるか聞いてみると、「新しい言葉を集めている段階で、まだ何も決まっていないが、検討に値する言葉」ということでした。辞書が登載するということは、その言葉が広く社会で使用されていることを認知されたということにほかなりません。いい悪いにかかわらず、イメージの定着した言葉は、別の類似した事柄を説明するときに使われるようになるものです。「難民」という言葉は、「見放されて途方にくれる人たち」というイメージで捉えられている、ということなのでしょう。

■ただ「見放された人たち」なのか

 でも「難民」は、見放され、途方にくれた人たちなのでしょうか。
確かに、世界の難民を取り巻く状況には厳しいものがあります。東日本大震災と同時期に始まった内戦がいまも続くシリアでは、毎日数千人の難民が生まれ、「冷戦後における最も危険で深刻な人道危機」(6月2日付朝日新聞デジタルの国連難民高等弁務官インタビュー)になっています。

 それでも、UNHCR駐日事務所のホームページに掲載されたシリア難民の子どもたちの写真は、厳しい生活環境の中でも笑顔で遊ぶ「回復力、適応力と活力」を映し出しています(http://www.unhcr.or.jp/photogallery/)。

 6月20日の原宿でのトークショーで池上彰さんも、ヨルダンのシリア難民キャンプを訪れた際、難民の人たちが池上さんに、支給された食べ物を食べさせようとしたエピソードを紹介し、「なんて優しい人たちだろうと思いました。私が食べるととてもうれしそうな顔をするんです。私たちの方が元気をもらいました」と、難民の人たちが力強く生きていることを紹介しました。

 
 UNHCR駐日事務所広報官の守屋由紀さんは「難民」について、何もできない人、困っている人、といったイメージから、「生き延びて難民となったが困難を乗り越えた人、強い精神力を持った人」という捉え方に変わってきているといいます。「帰宅難民」という言葉についても、最初は「帰るところのない難民の人たちと一緒にしてほしくない」と思ったそうですが、「たとえ1日2日でも家に帰れない、家族の安否も分からないという大変な体験をした人だからこそ、難民の人たちのへ理解が深まるのではないか」とプラスに考えるようになったといいます。

■違う意味での使い方に危機感

 とはいえやっぱり、「難民」という言葉を安易に比喩で使うのは感心しません。ミャンマー難民2世の関西学院大2年テュアン・シャンカイさんは、大学で「僕は難民だ」と言うと、「ネカフェに泊まってたの?」と返されたこともあり、「ネットカフェ難民」とか「就職難民」とか、違う意味で言葉が使われることに危機感を持った(6月7日付朝日新聞)といいます。

 中崎町の会場にいたある当事者に聞くと、「難民では、という視線を感じることはあるが、難民と言われることについては事実だから仕方がない」と受け止めていました。当然のことですが、当事者には呼称よりも、仕事や住宅、医療などでのサポート態勢の実現の方が大事、ということでしょう。

 支援するある大学2年生女子は、「難民には『難しい状況』があるからこそ、それを乗り越えたり改善したりしようとするのでは」と、難民という言葉がなくなることは必ずしも望まないと話してくれました。難民の実態を見えなくするという意味では、安易な比喩で使われるのも、言葉が消滅するのも同じなのかもしれません。

 池上さんは原宿でのトークショーで若者に向けて、「想像力が世界を救う」と語りかけました。「世界各地にいる難民の人たちがどんな思いでいるのか、日本にいても想像できる」と。日本語に詳しくない当事者から言葉の是非について声が上ることは少ないでしょう。だからこそ、私たちが想像力を働かせ、難民の実態について知り、思いに寄り添うことが必要なんだと思います。

■身近にいる「難民」と手を携えよう

 7日のイベントに参加した「ガーナのこどもとshare step プロジェクト」代表の近畿大学3年土橋啓泰さんは、幼い時にテレビでアフリカのやせ細った子どもの映像を見て、同じ地球にこんなことがあるのかと信じられず、自分の目で見てみたいと思ったのが、活動を始める原点でした。ガーナを選んだのは、チョコレートの商品名にも使われて身近に感じられていたから、という至って単純な理由。でも、プロジェクトは、学生の力で将来、ガーナの孤児院が農地開拓の運営ができるシステムを作ることを目標にして頑張っています。

ギリさん拡大地域で開かれた難民問題を知るイベントで、お国料理をふるまうギリさん(手前)=7月7日、大阪市北区、門田耕作撮影
 私自身が難民取材に関わるようになったのは数年前、たまに行く関西の私鉄駅頭に、決まって黒人男性がカンパ箱を持って立っているのを不思議に思ったのがきっかけでした。彼から受け取ったビラにあった支援団体を訪ねて大阪府茨木市にある西日本入管センターへ面会活動に同行したとき、施錠された小部屋で会ったネパール人男性が、7日のイベントでおいしいネパールカレーを作っていたギリさんその人です。思わぬ再会に、難民問題は決して遠い国の話ではないことを確信しました。

 ギリさんは身分制度の残る祖国で下位の女性と結婚したため親族らから暴行を受け、身の危険を逃れて2002年に来日しました。いま、仮放免で難民認定を待つ身ですが、中崎町のカフェでネパールカレーを作っています。集まった地域の人たちを前に「中崎町の方から愛をいただき幸せです」と笑顔で話しました。

 そう。皆さんが暮らしているごく近くにも、ランチ難民なんかじゃない、手を差し伸べるべき、手を携えるべき本当の「難民」はいるのです。

(門田耕作)