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人権・校閲

こちら人権情報局

1972年の難病対策――原点を振り返る

■「収入に応じた負担」、助成制度見直しへ

 原因が不明で治療の方法が確立していない、「難病」の医療費助成制度が変わろうとしています。「収入に応じた負担」を求め、自己負担の上限額が上がるため、患者によっては負担が大きくなります。一方、助成の対象は、現在の56疾患約78万人から約300疾患100万人超に広がります(朝日新聞10月29日付夕刊「難病助成 患者負担見直し」、10月30日付「難病 負担増の不安」)。

 現在につながる難病対策は、1972年に始まりました。同年2月17日朝日新聞夕刊のコラム「今日の問題」は、厚生省(現・厚生労働省)が「特定疾患対策室」を設置することになったとして、「難病は、いまや社会問題にもなってきている」と書いています。それまでは、社会問題ではなかったのでしょうか。

難病拡大厚労省案について難病の患者団体「タニマーによる制度の谷間をなくす会」が会見し、「負担が重い」と批判した=10月29日午後、東京・霞が関の厚労省、北林晃治撮影

 朝日新聞記事データベースで難病に関する記事を検索すると、1945年から58年までは全く出てきません。59年に1件、60年代には8件だけです。70年は7件、71年は6件で、このころから厚生省が研究体制をつくり始めたことがわかります(70年6月11日付「難病ベーチェット病にやっと宣戦 厚相表明 今月中に研究班」、71年9月5日付「難病対策に窓口 厚生省が新設計画 研究体制を整える」)。72年になると27件と急増します。

■薬害「スモン病」への注目がきっかけに

 ひとつのきっかけは、「スモン病」が注目を浴びたことです。足のまひ、視力障害などの症状が現れる病気で、昭和30年代から40年代にかけて日本の各地で発生しました。原因がわからず、ウイルス原因説も唱えられましたが、1970(昭和45)~72年に整腸剤キノホルムによる薬害であることが判明しました。

 治療法が不明で、初めは伝染病との疑いもあったため、患者の苦しみは深く、自殺する人も出るなど大きな問題となりました。政府の対策の遅さに批判の声が上がり、他の難病も含めてようやく総合的な対策が取られることになったのが72年だったのです。

 朝日新聞の社説も71年3月6日付「『難病』対策に積極的に取組め」までは難病をテーマにしたものは見あたりません。この社説は「原因不明の難病がふえてきた」と書き出していますが、難病自体は以前からあったはずで、新聞が注目しなかっただけだとすれば、反省せねばなりません。

 72年10月12日付の朝日新聞夕刊に、「“戦後のシッポ”脱皮」という見出しで、厚生省が機構改革を決めたという記事が出ています。「結核予防課」が「成人病対策課」と「難病対策課」に、「栄養課」が「健康増進課」に変わるというものです。戦後の食糧難の時代には、結核や栄養失調が大きな問題であり、難病はその陰に埋もれてしまっていたのでしょう。

■試される「他者の痛み、苦しみへの想像力」

 栄養過多で成人病(生活習慣病)が心配されるような豊かな時代に入ったことで、難病について、ようやく社会全体として考える余裕が出てきた。そんな時期にスモン病問題が重なって、政府としても本格的に対策を考え始めたのがこのころだったということになります。

 当時の記事を見ると、「治療費の自己負担の重さ」「公費負担の対象となる疾患が限られている」「財政への負担」など、現在言われているのと同じような課題が挙げられています。72年に厚生省の研究対象となったのは8疾患でした、対策が取られる難病の範囲は次第に拡大しましたが、根本的な問題は解決されていません。

 「社会の中で一定の割合で発症するリスクをみんなでシェアするのではなく、難病患者内で負担しろということなのか」。難病当事者で作家の大野更紗さんのことばです(東京新聞2013年10月27日付)。厳しい経済状況が続くなかで、私たちの社会はまた、余裕を失ってしまったのでしょうか。国の難病対策について触れた72年10月4日の「天声人語」は、難病の「もうひとつの定義」として「交通事故と同じように、それは、だれにも起りうる病気だ」と書いています。40年以上が過ぎた今も、この言葉を繰り返さねばなりません。他者の痛み、苦しみ、生活の不自由さへの想像力が試されていると思います。

(松沢明広)