メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

人権・校閲

こちら人権情報局

ハンセン病療養所の「負の遺産」――谺雄二さんを悼む

石橋 昌也

 5月11日、ハンセン病国家賠償訴訟の全国原告団協議会会長で、差別解消の運動の先頭に立った谺雄二(こだま・ゆうじ)さんが82歳で亡くなりました。7歳でハンセン病を発症し、東京・東村山の多磨全生園を経て群馬・草津の栗生楽泉園に入所し、生活してきました。谺さんは、詩人としても活躍しましたが、療養所入所者の待遇改善を求めた運動で国会での座り込みに参加するなど「闘士」と呼ばれていました。

■監禁施設「重監房」の復元に尽力

 「闘士」谺さんが最晩年に力を注いだのは、自身が入所する栗生楽泉園にかつて存在した「重監房」という施設の復元運動でした。重監房は、正式には「特別病室」という名前で、1938年に建設され47年まで運用された「監禁施設」でした。各地のハンセン病療養所から、反抗的な患者を収容・監禁するために使われました。この間、93人の患者が収監され、房内で、または出房後に、計23人が亡くなったと言われています。

重監房拡大再現された重監房の独房内。冬の寒さで室内にも霜が付いたという=4月30日、群馬県草津町草津、井上怜撮影

 重監房とはどういうところだったのでしょうか。発掘調査や関係者の証言から、木造モルタル造りの平屋建てで、4畳ほどの独房が8部屋備えられていたことがわかっています。次に引用するのは、氷上恵介(1923~84)の『オリオンの哀しみ』という短編小説の一節です。この小説は1941年に東京・多磨全生園で実際に起きた「洗濯場事件」と呼ばれる出来事に材をとったもので、重監房の様子を次のように表現しています。

 「厚い扉が三重に外部との連絡を遮断し、狭い室内は高い所にたった一つの窓のほのかな明るさのみで昼なお暗く、外界の物音すら聞こえぬ監房そのものであった。(中略)少量の食事を与え、火の気の何等ない板敷の上に煎餅布団を敷き、それに冬は自分の吐く息で氷柱を下げ、夏は蚊の唸りの充満するのに何の防ぐ手段もなく、思考力の全てを厚い厚い周囲の板に捧げ、虫けらの如く死に向かってその日のみを生かそうとする」

■元患者「殺されることを判っていた」

 「洗濯場事件」とは、多磨全生園で園内作業の一環として洗濯作業に従事していた患者が長靴の交換を求めて作業をサボタージュしたところ、重監房送りになってしまったという事件です。重監房送りとなった男性患者は、重監房を出た後に亡くなりました。ほとんど食事を与えられず、寒暖の差が激しいところに監禁され、病状が悪化したのだとされています。

 この短編の作者である氷上恵介もハンセン病患者で、多磨全生園に42年に19歳で入所しており、事件を知る人たちから直接話を聞いて創作したと言われています。小説中には他の箇所で主人公たちが重監房に送られることを「草津送り」と称して、非常に恐れている様子が出てきます。

 「草津送り」の恐怖を語っているのは小説だけではありません。ハンセン病患者の強制隔離政策などに対する国の責任を認めた2001年の熊本地裁判決を受け、厚生労働省が設置した第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」が05年に厚労相に提出した最終報告書に、重監房についての元患者らへの聞き取りが載せられています。

 「各園にも監禁所があるのだから、そこへ送りこめばいいのにわざわざここへつれてきた。これは全国の患者への見せしめだった。逆に楽泉園の人は行く人が少なかった。殺されることを判っていたから、絶対さからえなかった」(39年入所、男性)
「農作物を盗んだ人が重監房に入れられ、翌日首をつって死んでいたこともある」(43年入所、男性)
「重監房に入るのが嫌だから奉仕や仕事にまじめに出た」(42年入所、女性)

■差別の象徴、悲劇を繰り返すな

 ある男性は「栗生重監房は『日本のアウシュビッツ』だった」とも語っています。ハンセン病患者らに対する差別政策については「ハンセン病回復者にハンストさせるのか!」というコラムでも書かれていますが、隔離主義をとった法律と、「不治の病」「業病」という誤った認識から起こる偏見によって、患者らに対して非人間的な処遇がなされてきました。「らい予防法」(1953年制定、96年廃止)の前身の旧法では、懲戒検束権を与えられた施設長の一方的な宣告によって重監房に送りこまれました。最大で2カ月以内の監禁という規則があるにもかかわらず、500日以上も収容された患者もいたといいます。

 谺さんが栗生楽泉園に転院した時にはこの重監房はすでに運用が停止されていましたが、「許して下さい」という文字が重監房の壁に書かれていたのを見たといいます。谺さんは「存在したこと自体が差別の証拠。必ず後世に残さないといけない」という決意をもって、重監房の復元運動に取り組みました。

 4月30日、栗生楽泉園に重監房を復元した「重監房資料館」の開館式典が行われました。その式典には、病身を押して出席した谺さんの姿もありました。「出るまで死ねない」と話していたそうです。11日後、谺さんは永眠されました。「暗黒、極寒、飢餓、孤独。すべての地獄があった」(谺さん)という重監房は、近代日本のハンセン病患者に対する差別の象徴であり、負の遺産です。谺さんが最後に残した思いを受け止め、このような悲劇を繰り返さないようにしなければいけません。

《関連記事》

谺雄二さん死去 ハンセン病原告団協議会長(5/11)

いのちの尊厳取り戻すため闘った 谺雄二さん死去(5/12)

(天声人語)二つの名前と差別(5/19)

ハンセン病、負の遺産を継承 患者監禁施設を再現 群馬(5/1)

群馬)生きた証し、後世へ刻む ハンセン病市民学会総会(5/1)

重監房という地獄があった 群馬のハンセン病施設が再現(4/30)

重監房の記憶、後世に ハンセン病患者を監禁、資料館30日開館 草津・栗生楽泉園(4/28)

群馬)「重監房」の恐怖語る ハンセン病めぐるシンポ(3/2)

WEBRONZA「ハンセン病患者迫害の傷跡を世界遺産に」(2013/10/11)

(石橋昌也)

 【最近の記事から】

◎は朝日新聞本紙、【県名】は朝日新聞地域面、○は他紙などの記事。

■ハンセン病

ハンセン病、小6に誤解招く授業 福岡県教委が謝罪(6/6西部本社版)
 福岡県内の小学校で昨冬、人権教育を担当する40代の男性教諭が6年生の授業でハンセン病を取り上げた際、説明がうまく伝わらず、児童が「骨が溶ける病気」などと思い込んでしまっていたことがわかった。別の担任教諭が、こうした内容を書いた児童の感想文を熊本県合志市の国立ハンセン病療養所「菊池恵楓(けいふう)園」に郵送していた。

(書評)『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』 谺雄二〈著〉姜信子〈編〉(6/1)
 本書には、詩人である谺の歩みが濃縮されている。詩や小説、評論だけでなく、裁判での意見陳述書や座談会の様子も時系列順に掲載されている。憤りを包み隠さず、容赦なく言葉のハンマーを振り下ろし続けるような谺の作品は、数多くある「ハンセン病文学」の中でも突出して告発的だ。

(惜別)詩人・ハンセン病訴訟全国原告団協議会長、谺雄二さん(5/31)
 詩集「ライは長い旅だから」を世に出したのは、隔離政策が続いていた約30年前のことだ。ホルマリンに漬けられて、赤ちゃんがガラス瓶の中で丸まっている。ハンセン病の女性が宿した子の写真が収められていた。

故神美知宏さんと故谺雄二さんをしのぶ会 (5/29)
 故神美知宏さん(全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)と故谺(こだま)雄二さん(ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長)をしのぶ会 6月21日午後1時30分から東京都江東区有明3の5の7のTOC有明4階のコンベンションホールで。連絡先は全療協(042・396・2052)。

(惜別)全国ハンセン病療養所入所者協議会会長・神美知宏さん 病に差別ない社会へ戦い抜いた(5/24)
 病気になっただけで、家族も名前も奪われてしまった。ハンセン病の患者・回復者の尊厳を取り戻し、病気による差別や偏見で苦しむひとが二度と出ない社会の実現へ命を賭した。温かく、透徹した人だった。

【香川】「負の歴史」考え世界遺産登録を ハンセン病療養所関係者訴え(5/26)
 ハンセン病隔離政策が推し進められた国立療養所の世界遺産登録をめざす講演会が25日、高松市内であった。昨年10月、全国で初めて準備会を立ち上げた長島愛生園(岡山県瀬戸内市)の関係者2人が「負の歴史」を保存することの意義を訴えた。

ハンセン病療養所:重監房資料館、見学ドッと 草津・栗生楽泉園に開館1カ月 交通や跡地保存課題(5/31毎日新聞群馬版)