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観字紀行

岐阜県養老町~「車山」が1文字に 中編~

菅井 保宏

 岐阜県の西美濃地方一帯では、祭りで曳(ひ)き回される山車のことを、「」(やま)と書きます。辞書にも載らない、このという見慣れない漢字は、いつごろから使われはじめたのでしょうか。この地方に残されている古文書をたよりに、時代をさかのぼってみましょう。

養老町の高田祭のポスター拡大養老町の高田祭のポスター
 岐阜県の山車について詳しい垂井町議員の吉野誠さんによれば、垂井町の明治期の文書は行方が分からないとのこと、揖斐川町には1871(明治4)年の古文書にの字が記されているそうです。また、大垣市発行の「大垣の祭」には、1870年の墨書が写真つきで紹介されています。遠く離れた東濃地方、旧加子母村(現中津川市)でも、1909(明治42)年の文書が残されているという話でした。このように明治期の使用例はいくつも残っていて、すでに広まっていたことが分かります。それでは、江戸時代の古文書はあるのでしょうか。

 昔々をたずねたら 江戸時代の使用例を、養老町発行の冊子の中に見つけました。1981(昭和56)年に発行された「養老町 高田・室原祭と曳」に、「嘉永2年」(1849年)のものとして解説されています。養老町では年2回、祭りがあります。初夏に同町高田で高田祭が、秋には同町室原で室原祭があります。それぞれ4両、3両の装飾の美しいが出るそうですが、「」の記述のある古文書は、そのうち高田に残されているものです。

 古文書の保管者は、曳保存会会長の近藤勇二さん(76)。さっそく連絡をとり、現物を見せていただくことになりました。聞けば近藤さん宅はなんと、私が学生時代にアルバイトでお世話になった先輩宅のお隣だとか。奇縁を感じながら、近藤さん宅に向かいました。

 地元紙のトップを飾る 近藤さんは最近、彫り物の関係で、あちらこちらから取材を受けて忙しいそうです。というのもちょうど2年前、の上にいただく彫り物が、江戸末期の名工、立川流二代目・立川和四郎冨昌と次男専四郎冨種の作であることが明らかになったからです。

 地元では、三代目兄弟の作と言い伝えられていましたが、国立岐阜工業高等専門学校名誉教授の水野耕嗣さんが作品の出来映えが素晴らしいことから長年、作者に疑問を抱き、保存会の協力を得て彫刻の額を外したところ、裏側に二代目父子の名前が刻まれているのを見つけました。この“大発見”は、地元紙の1面を飾りました。

 江戸末期から明治にかけて、立川流初代~四代は、信州諏訪に工房を設け、東は千葉から西は京都まで、およそ200件の彫刻・建築物を残したそうです。中でも二代目・立川和四郎(1782~1856)は初代を上回る天才肌で、立川流彫刻を芸術の域まで高めました。松平定信にも目をかけられ、「幕末の左甚五郎」と呼ばれたそうです。

 養老町高田では毎年5月に祭りがありますが、いまでは立川流の本拠である、長野県からの見学者が絶えないそうです。