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観字紀行

「多摩」か「玉」か 多摩川を歩く~玉川上水

 多摩川と関係があって「玉川」と書く有名なものに、「玉川上水」があります。「走れメロス」や「斜陽」で知られる太宰治が1948(昭和23)年、入水した場所です。

拡大入水したとされる辺りには太宰の出身地の青森県で採れる玉鹿石(ぎょっかせき)が置かれている。後ろが玉川上水
拡大近くには「玉川上水」が登場する太宰作品の案内板も

拡大新宿区の四谷大木戸にある玉川上水の終点を示す「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」。明治時代に建てられた
 江戸時代に掘られ、多摩川の水を引き入れて城下町に飲み水を供給しました。東京都水道局によると、現在も東京の水の一部(数パーセント)は玉川上水から浄水場に引き込まれているそうです。用水沿いには桜並木や緑道があり、市民の憩いの場でもあります。 多摩川から取水するのに、「玉川上水」と表記するのはなぜか? その理由を探りに、取水地である東京都羽村市の羽村堰(ぜき)を訪ねました。玉川上水を造ったとされる「玉川兄弟」の像があるからです。

拡大羽村駅の案内板.「多摩川」「玉川上水」の表記がある。「まいまいず井戸」というおもしろい案内も。
拡大羽村駅の案内にある「まいまいず井戸」。「まいまいず」はかたつむりの意味で螺旋状に掘られた井戸。石だらけの砂礫層の地層を深く掘るための工夫で、鎌倉時代に掘られたと推定されている
拡大旧鎌倉街道の案内板
 玉川上水は1653(承応2)年、現在の東京都を西から東へ横断するように43キロ(羽村市から新宿区の四谷大木戸まで)にわたって掘られました。将軍や参勤交代で江戸に詰める大名、住民ら人口100万人(1700年ごろ)の生活用水のほか、分水されて武蔵野の荒れ地を潤し、耕作に使われました。江戸発展の基礎になったといわれています。そんな大事業を成し遂げた兄弟はどんな人だったのでしょう。

 JR青梅線羽村駅から多摩川に向かいます。

 途中、「この道は旧鎌倉街道」と解説する案内板がありました。約800年前にできた道。江戸時代に、羽村堰の修繕に使われた竹を運ぶ道でもあったようです。でも、どの道か分かりません。近くで代々建設業を営む小林弁右衛門さん(77)が「あの道だよ」と指してくれたのは、幹線道路に交わる狭い脇道でした。街道といっても、現在の幹線と比べれば、とても細かったのでしょう。小林さんが「今は小学校の校庭になっている所も街道が通っていた。40年くらい前には雨が降ったとき、黒い校庭を横切るように白っぽい線ができた。街道だったところは土が踏み固められて硬くなっていたんだろうね」と教えてくれました。

拡大中里介山の墓
 川に向かって坂道を下りていくと左手に禅林寺があります。多摩川水系の水源の一つがある山梨県の大菩薩峠が描かれた小説「大菩薩峠」の著者で、羽村出身の中里介山の墓があるというので立ち寄ってみました。介山の母の親類(加藤家)は羽村堰の管理をする「水番人」を務め、介山も上水や玉川兄弟に関する史料を集めるなど、玉川上水にはゆかりがあります。山門をくぐった所に紅梅の大木がありました。寺の案内板によると、介山の家から移植されたものだそうです。

拡大羽村堰
拡大羽村堰の案内板
拡大玉川兄弟の像
拡大玉川兄弟像の台座の碑文

 さて禅林寺から羽村堰へ向かいましょう。住宅街を抜けると、「シャーッ」という激しい音が聞こえてきました。水が流れ落ちる音でした。「この辺りはそんなに急流なのか」と思い、川沿いを走る道を渡ってのぞき込むと、それは羽村堰の二つの水門を通る水音でした。

 悠々と流れてきた多摩川の水はここでせき止められ、一度すべて玉川上水へ入ります。その後、上水の水量を調節する水門と、余分な水を多摩川へ戻す水門とで、二手に分けられます。本流に戻った水は、再びゆったりと流れていました。

 水門の上と、多摩川と玉川上水に挟まれた土手が遊歩道として整備されています。その一角に「玉川兄弟」の像がありました。後ろが兄の庄右衛門、前が弟の清右衛門。兄は間縄(けんなわ)、弟は間竿(けんざお)という測量の道具を持っています。兄は何かを指さしていますが、水路を引く方向を見定めているのでしょうか。

 台座の背面に「玉川兄弟」の功績が記されています。要約すると、江戸は人口が増加し、水が不足していた。多摩郡羽村に縁のある庄右衛門、清右衛門兄弟が、幾多の困難の末に、羽村に堰を設け水路を引き、江戸に飲用水を供給した。幕府はその功績を表彰して「玉川」の姓を名乗ることを許し、武士にした――。

 兄弟は、上水を完成させた偉業から氏帯刀を許され、玉川姓を賜りました。さらに幕府から、上水の管理も命じられ、扶持(給料)も支給されることになったのです。

 この玉川兄弟の出身地や元の職業は、はっきりしていません。羽村出身とも、江戸の町人ともいわれています。工事の実際の手順、人夫の集め方なども、当時の記録は残っておらず、正確には分からないそうです。

 碑文にあった「幾多の困難」とは何でしょうか?

 上水完成の150年後に書かれた文書(玉川上水起元)には、玉川兄弟が玉川上水をひくのに2度失敗したという話が出てきます。1度目は、途中まで掘った水路に、試しに水を流したら土地の高低差を見誤ったのか途中で流れなくなってしまった。2度目は、別の場所に掘り直した水路に流したところ、水が地中に吸い込まれてしまった――というものです。そのためか、兄弟の子孫が書いた別の文献(上水記)には、当初の予算が途中で尽きてしまい、兄弟は自分たちの家を売り払って工事費を工面し、上水を完成させたという話も残っています。

拡大右奥の上り坂が「かなしい坂」
 玉川上水が敷かれた武蔵野の大地は、ほとんど勾配がなく、関東ローム層の下にある砂礫(されき)の多い地盤で水を吸収しやすいといわれ、これらの話は実際にあったのかもしれません。1度目の失敗は、府中市が昔から「むだ堀」と呼ばれていた場所を発掘調査して見つかった堀跡がこれにあたるのでははいかと言われています。堀跡は埋め戻されて分かりませんが、近くにこの失敗に由来するのではないかといわれる「かなしい坂」があります。