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弧族になりませんように ― 変換辞書のはなし2

比留間 直和

 前回、記者が使うパソコンの仮名漢字変換ソフトの辞書にどんな調整を加えているか、校閲センターによる作業の概要を紹介しました。

 今回は、「新聞社ならでは」の追加単語をいくつか紹介してみたいと思います。

 

■孤?弧?狐?

 

 先日追加したばかりの単語の一つに「こぞく→孤族」があります。

 朝日新聞をお読みになっている皆さんならよくご存じでしょう。昨年末から今年1月にかけて掲載した大型企画「孤族の国」のキーワードです。

拡大昨年末から今年1月にかけて連載した「孤族の国」
 地域社会のつながりが薄れるなか、単身世帯の急増や超高齢化で、人々が孤立や貧困に直面する。「孤族の国」は、そんな日本の姿を表した言葉です。菅直人首相も1月の施政方針演説で「『無縁社会』や『孤族』と言われるように、社会から孤立する人が増えています」と言及、この問題への取り組みをアピールしました。(ちなみに「無縁社会」はNHKが番組で使った言葉です)

 さてこの「孤族」、まぎれもない“造語”です。そのため、一般の仮名漢字変換ソフトでは一発変換されません。連載当時、朝日新聞の記者が使っているパソコンの変換ソフトでも状況は同じでした。

 そんななか、校閲関係者がひそかに心配していたのが、誤変換です。一発で出てこない以上、「こ」と「ぞく」に分けて変換・確定することになりますが、「こ」の変換候補で比較的早いうちに出てくるのが、弓へんの「弧」。「孤」にたいへんよく似た字です。

 「孤族」と打つつもりで「弧族」と変換してしまう記者がいるのではないか――。自分たちがこしらえた言葉を誤植してしまっては、みっともないことこの上ありません。

 おかげで、原稿に「孤族」と出てくるたびに、筆者を含む校閲担当者は「弓へんになっていないだろうな」と、眉間にしわを寄せながら文字を凝視していたのでした。

 決して大げさな話ではなく、筆者自身、「孤族の国」に言及した別の原稿を点検中に、「弧族」に遭遇したことがあります。(さすがにケモノへんの「狐族」にであったことはありませんが)

 結局「孤族の国」の連載には間に合いませんでしたが、記者用の仮名漢字変換ソフトで変換できるよう「こぞく→孤族」を追加した辞書を社内に配布したので、今後「孤族」の話題を取り上げるときに「弧族」の誤植が現れる可能性は低くなったと思います。

 しかし、安心はできません。

 仮名漢字変換ソフトには過去の変換結果を覚える「学習機能」があり、個々の設定にもよりますが、一度弓へんの「弧族」で確定してしまうと、その後それを優先的に出してしまう場合があります。

 「孤族/弧族」に限ったことではありませんが、校閲センター員としては、常にこうした「似て非なる字」に目を光らせなくてはなりません。

 

■ゼンブン?マエブン?

 

 「前文」。どう読みますか?

 記事のリード部分で、たいてい1行あたりの字数を変えて目立たせたりします。一般的な読み方は「ぜんぶん」ですが、それだと耳で聞いたときに「全文」と紛らわしいので、社内ではもっぱら「まえぶん」と言っています。

 印刷に回すまであとわずかという時間に、「前文」のつもりで「ぜんぶん取り換えます!」などと言ったら「もう時間が無いよ!」と怒られてしまいますが、「まえぶん」と言えば全部でなくリード部分だけ替えたいのだとすぐ分かります。

 ちょうど化学を「ばけがく」、市立を「いちりつ」と言ったりするのと同じことです。

 ただ、「化学=ばけがく」や「市立=いちりつ」は、それぞれ「科学」や「私立」と区別して言うための読み方であることが辞書にも載っていますが、「前文=まえぶん」は辞書には見あたりません。そのためか、仮名漢字変換ソフトで「まえぶん」と打って変換すると「まえ」と「ぶん」に分けられてしまい、「前文」でなく「前分」になってしまったりします。

 大きな記事では本文と前文とを分けて出稿することが多く、その場合、前文には「日米首脳会談・前文」などと名前を付けておきます。そのとき、「前文」を「まえぶん」と読むことが体に染みついている記者たちにとって、「まえぶん」で「前文」がすぐ出てこないと不便です。そこで「まえぶん→前文」も、記者用の仮名漢字変換辞書に登録しています。
 
 
 ちょっと不安なのは、新聞記者が社外(学校や公共施設)におじゃまして新聞づくりについて説明するときに、「前文」を「まえぶん」と言ってやしないか……ということです。一般の人々にとって、「前文=まえぶん」という読み方はなじみのないものでしょう。話の流れで「ああ、前文のことか」と分かってもらえるかもしれませんが、「変わった読み方をするなあ」と思われるのはおそらく避けられません。

 仮名漢字変換を業務に最適化することで、それが狭い世界の言葉(ある種の方言)であることを忘れさせてしまうとしたら、少しばかり申し訳ない気がします。

 

■もうコウハンです!

 

 さきほど「印刷に回す」という言い方をしましたが、組み版データを完成させて印刷工程に回すことを、社内では「降版=こうはん」と呼んでいます。「降版」の遅れはそのままその後の工程に響き、配達遅れにもつながりかねません。そのため、決められた「降版時間」までに何とか編集作業を終えようと、毎日ドタバタ走り回っています。

 社内では何の疑問もなく「降版」と言っていますが、広辞苑や大辞林には載っていません。日本国語大辞典を引っ張り出すと、ようやく

 「印刷で、校了になった組版を紙型どりや製版など、次の工程に移すこと。下版(げはん)」

とあります。この説明文にある「下版」のほうは広辞苑や大辞林にも載っており、印刷業界で実際に使われているようですが、少なくとも朝日新聞の社内で筆者が「下版」を耳にしたことはありません。おそらく新聞業界全体でも「降版」の方が一般的だと思います。
 
 
 「降版」はもともと活版時代の言葉ですが、コンピューターで新聞を製作するようになってからも生きて使われています。「版をおろす」ということなので、「降版」の意味で「スポーツ面はもうおろした?」「1面はまだおりていない」といった会話も飛び交っています。

 朝日新聞で数年前まで使っていた、前の世代の新聞製作システム(ネルソンと呼ばれていました)では、組み版データを印刷に回す際に端末に打ち込む命令(コマンド)が、なんと「KOHAN」でした。正確には、降版に関連する複数の指示をまとめたショートカットのようなものでしたが、英語のコマンドをずらずら打ち込むよりも、日本語の「降版」そのままのほうが使い勝手が良かったのでしょう。ほかにも「SHITEI(指定)」「BOTSU(没)」など、日本語に合わせたコマンド名があったそうです。

拡大マイクロソフトのIME2010は「最新語辞書」に「降版」が入った
 その後、社内の新聞製作システムは新しくなり、組み版端末で「KOHAN」コマンドを打ち込むことは無くなりましたが、「降版」という言葉は今も記者職・技術職を問わず入社してすぐに覚え、そしていつの間にか業界用語であることすら忘れています。

 しかし限られた世界でしか使われない用語なので、「こうはん→降版」と変換してくれる仮名漢字変換ソフトはなかなかありませんでした。社内で使う製品にもこの言葉は登録されていなかったので、ずいぶん前から校閲センターの担当者が記者用の辞書に追加しています。

 なお、最近の製品では「降版」が登録されているものが出てきており、「Microsoft Office IME 2010」では「最新語辞書」で変換できるようになっています。次は広辞苑・大辞林クラスの辞書への掲載を目指す?としましょうか。

 

        ◇

 

 仮名漢字変換の辞書にそれぞれの業界用語や社内用語を追加するのは、新聞に限らず、多くの企業・団体で行われていることでしょう。こうした組織内向けの登録単語を調べてみると、それぞれの業種・業界の事情や慣習が浮かび上がってきて、面白い言語資料になるかもしれません。 

(比留間直和)