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その右下が悩みのタネ ― 変換辞書のはなし3

比留間 直和

 「りりしい」とか「りんとした態度」などに使われる「リン」という漢字。情報機器に広く搭載されている「JIS第1・第2水準」の範囲には、「凜」と「凛」の二つの字体があります。右下が「禾」か「示」かという違いで、一見区別しづらいかもしれませんが、校閲に携わる者は、この字が出てきたら何よりも先に「右下がどちらの形か」を見分けようとします。

 禾の「凜」と示の「凛」、どちらの字体を使えばよいのか調べたいとき、多くの人たちはどうするでしょうか。

 国語辞典で「りりしい」などを引くと、まず例外なく、禾の「凜」が使われています。

 しかし主要な仮名漢字変換ソフトの最新バージョンで「りりしい」「ゆうきりんりん」と打って変換してみると、国語辞典とは異なる結果になります。

 ご覧のように、どちらの変換ソフトも「りりしい」「ゆうきりんりん」の候補には、右下が示の「凛」しか出てきません。

 「りん」だけで変換した場合はさすがに「凛」も「凜」も出てきますが、熟語や活用語だと上のように示の「凛」が“重用”されているのです。禾の「凜」がJIS第1・第2水準に無いというのであればまだ分かりますが、そういうわけではありません。

 なぜこうした食い違いが生じるのでしょうか。

 

■ねじれのもとは、康熙字典

 

 この二つのリンの字をめぐっては、ややこしい経緯があります。

 漢和辞典では以前から、禾の「凜」が正字体、示の「凛」はその異体字(俗字)という書き方になっています。では昔から印刷物で禾の「凜」が主流だったかというと、そうではありませんでした。

 当用漢字以前の活字を集めた資料「明朝体活字字形一覧」(1999年、文化庁)を見ると、掲載されている19世紀から終戦直後までの23種の活字見本帳のうち、《禾の「凜」だけ》なのはわずか3種。逆に《示の「凛」だけ》は10種にのぼり、《両方あり》が4種ありました(残り6種はどちらの字体も無し)。つまり、戦前に作られた活字では、示の「凛」のほうが優勢だったのです。

 これには理由があります。近代の活字が字体のお手本にした清代の「康熙字典」が、禾の「凜」でなく、示の「凛」を掲げていたのです。

 字源的には右下を禾に作るのが妥当と考えられ、また「にすい」の無い「稟議書(りんぎしょ)」のリンは、康熙字典でも禾の「稟」を正字としています。なぜ「にすい」がついた字では示の「凛」を掲げたのかよくわかりませんが(おそらくは間違いなのでしょう)、日本の漢和辞典は、康熙字典の記述を修正して載せているわけです。

 明治から昭和戦前期の朝日新聞の紙面を見たところ、本文では示の「凛」を使い、見出しは「凜」と「凛」とで揺れがありました。当時は今のような「自前のフォント」ではなかったので、世の中の活字字体の揺れをそのまま反映していたと思われます。

 

 

 戦後、朝日新聞が自前のデザインで活字を整備した際は、本文・見出しとも示の「凛」に統一しました。当時、朝日新聞では表外漢字にも当用漢字の略し方を拡大適用したのですが、「凛」については関連する当用漢字は見あたらないため、略字主義とは関係なく、たまたまこちらの字体にそろえたものと思われます。

 日本を代表する国語辞典も一時期、示の「凛」を使っていました。筆者の職場に残る「広辞苑」の各版を見ると、第2版(1969年)と第2版補訂版(1976年)は、禾でなく示の「凛」。これに対し、初版(1955年)と、第3版(1983年)以降の各版は、いずれも禾の「凜」になっています。

 

 

 JIS漢字(第1・第2水準)が最初に制定されたのは1978年ですが、このとき入ったのは示の「凛」だけでした。漢和辞典の記述とは相反していますが、実際に使われてきた活字の実態からみれば、さほど不自然なことではなかったと思います。なにしろ当時の広辞苑(第2版補訂版)が、示の「凛」を使っていたくらいですから。

 

        ◇

 

 転機は、1990年に訪れました。法務省が禾の「凜」を人名用漢字に追加したのです。先にJIS漢字に入っていた示の「凛」ではなく、漢和辞典が正字とする字体をわざわざ採用したわけです。これを受け、同年のJIS漢字改正で、禾の「凜」が第2水準の後ろに追加されました。

 当時、国の国語施策では常用漢字以外の字体基準は示されておらず、法令で字体を示したものは法務省の人名用漢字ぐらいしか無かったため、新聞社や出版業界では人名用漢字を事実上の字体基準として運用していました。

 禾の「凜」が人名用漢字に入ったのを受け、それまで示の「凛」を使っていた朝日新聞も、新聞製作システムに禾の「凜」を追加し、90年4月からこれを優先的に使うようにしました。

 この「人名用漢字を字体基準とみなす慣行」は、2000年の国語審議会答申「表外漢字字体表」で追認されました。「凜/凛」については禾の「凜」が標準であることを、国語審も認知したわけです。

 

■それから21年経ちました…

 

 さて、1990年に禾の「凜」もJIS漢字に入りましたが、文字コードのような規格は、決めたからといってすぐに製品に反映されるものではありません。

 パソコンはOSやフォントを入れ替えることもできますが、ワープロ専用機やプリンター搭載フォントは容易には変更できません。情報交換に不安のある文字を使うのは慎重にならざるを得ず、禾の「凜」は半ば「機種依存文字」のような扱いを受けました。主要な仮名漢字変換ソフトで今も禾の「凜々しい」が出ず、示の「凛々しい」だけが出てくるのも、その名残と言ってよいでしょう。

 しかし新聞では、禾の「凜」を使うのが原則です。そのため、「りりしい」や「ゆうきりんりん」などのときは禾の「凜」だけが候補に出てくるように、仮名漢字変換辞書を社内向けに調整しています。

 注意が必要なのは変換ソフトだけではありません。一部の電子辞書ソフトも「りりしい」などの漢字表記が示の「凛」になっています。もとになっている紙の辞書では禾の「凜」が使われているにもかかわらず、です。

 JIS漢字の90年改正から既に21年が経ち、禾の「凜」が未搭載の機器はもうほとんど無いはずです。しかし「あとからJIS漢字に入った」という事実は、禾の「凜」にとって、なかなか解消できない重荷になっているようです。

 今さら仕方のないことですが、もし1978年の最初のJIS漢字に禾の「凜」も一緒に入れておいてくれれば、状況はだいぶ違っていたでしょう。

 

        ◇

 

 「凜/凛」のストーリーには、まだ続きがあります。

 2004年、名付けの制限への不満の高まりを受け、法務省は人名用漢字を大幅に拡大。こんどは示の「凛」が入り、どちらの字体も子どもの名付けに使えるようになりました。

 制限緩和に対する賛否はそれぞれあると思いますが、校閲の実務面からだけ言えば、正直あまりありがたくはありません。1990年に禾の「凜」が人名用漢字に入って以降、「リンちゃん」の字体は禾の「凜」に決まっていたのですが、04年秋以降に生まれた子については、「凜ちゃん」なのか「凛ちゃん」なのか確認する必要があります。しかし確認するにしても、二つの字体があることを誰もが知っているとはいえず、また仮名漢字変換辞書も2字体を対等には扱っていないため、確認用の資料があっても「凜」と「凛」が適切に使い分けられているのか不安が残るケースがあります。

 校閲者にとっては腕の見せどころとも言えますが、アタマの痛い話です。

 

 仮名漢字変換で示の「凛」が“優先”されているのはパソコンに限った話ではなく、例えば筆者が所有する携帯電話も、「りりしい」という単語で出てくるのは示の「凛」だけです。

 こうした情報機器での使い勝手が、名付けにおける字体選択に影響を及ぼすことは十分考えられます。現に、明治安田生命が毎年発表している名前ランキングでは、このところ3年連続で(わずかな差ですが)示の「凛」ちゃんが禾の「凜」ちゃんを上回っています。

 こうして、示の「凛」ちゃんが増えていく→ますます示の「凛」へのなじみが増す、というふうにぐるぐる回っていくと、禾の「凜」の存在感が相対的に低くなっていくかもしれません。両方の字体が人名用漢字になっても、一般的な用途では禾の「凜」が標準であることに変わりはないのですが……

 

 筆者個人はどちらの字体とも直接の利害関係(?)はありませんが、標準とされている割には、禾の「凜」があまり大事にされていない印象を受けます。せっかく漢和辞典の見解と国語審答申が「標準は禾の『凜』」で一致したわけですし、JIS漢字入りから21年も経つわけですから、そろそろ仮名漢字変換ソフトも初期状態で禾の「凜々しい」が出てくるようになってほしいものです。

(比留間直和)