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観字紀行

この漢字でなぜこう読むの~大阪難読地名歩き~その2

越智 健二

 第2回の取材。6月14日は阪神野田駅で乗り換え、地下鉄千日前線で野田阪神駅から西長堀駅へ向かった。地上に出てみると長堀通の鰹座(かつおざ)橋だった。

拡大今回のスタート地点は鰹座橋交差点

 このあたりは大阪市西区。かつていくつもあった橋はもうないが、交差点に名をとどめている。橋の名前は土佐名産の鰹節を売買する鰹座から付いたそうだ。あみだ池筋を行く。新町の先についに現れたのが、大阪難読地名第2弾の場所だ。読者はこの地名をどう発音されるだろう。大阪出身ではない筆者も長い間、読めなかった。読みを知った時には単純に「昔、堀にイタチがいたのだろう」と思った。しかし、街を歩き、いろいろ調べてみるうちにそんな単純な話ではないと知るにいたった。

 知らぬ人が目にすればたぶん「たちうりぼり」などと読まれるであろう「立売堀(いたちぼり)」は東西を四つ橋筋と木津川に、南北を長堀通と中央大通に挟まれている一帯だ。1丁目から6丁目まであり、2010年9月末現在で3353世帯、5980人が住んでいるそうだ。

拡大立売堀3丁目の交差点

拡大バス停

 立売堀にルビを振っているビルはないか、平仮名で「いたちぼり」としている看板はないかとキョロキョロしながら街を歩いた。その様子からこのあたりは機械工具の企業が集まった街らしいことが分かる。アスファルトと鉄筋の建物ばかりでイタチがすむような場所は見あたらない。しかも大阪を代表する難読地名であるにもかかわらず、それに困っている様子はまったくない。「いたちぼり」と平仮名表記にしている居酒屋をインターネットのグルメサイトで見つけていたので、その店を目指して歩いて行ったが、居酒屋はもうなくなり、おしゃれなカフェに変わっていた。う、取材はここで頓挫か。

拡大こんな事業所や…

拡大こんなビルがありました

 やがて四つ橋筋西側、株式会社「花王」大阪事業場の玄関横に「立売堀川跡の碑」を見つけた。立売堀川については平凡社の日本歴史地名大系「大阪府の地名1」に詳しい。

拡大都会の片隅にひっそりと

 川ができたいきさつは次のように書かれている。「元和6(1620)年、開削に着手され、中断ののち、寛永3(1626)年、惣年寄・宍喰屋次郎右衛門が工事を再開して完成させた堀川。両岸一帯の地域を立売堀と称する。(中略)昭和31(1956)年に埋め立てられて姿を消したが、かつての流路は現在の立売堀1~5丁目に含まれる」

 そしてここからが重要。

 「名称の由来には諸説あるが、一般的には『摂津名所図会大成』にあるように、大坂冬の陣・夏の陣に際して伊達家の陣所が置かれていた地で、その要害の堀切であったところを掘り足して堀川としたことから伊達堀(だてぼり)と称され、のちに伊達堀(いだてぼり)、伊達堀(いたちぼり)と呼ばれるようになり、さらに近辺で材木の立ち売りが許可されたため、『立売堀』の字を用いるようになったとされる」

 最初に「読み」が決まり、後に商いの形態から漢字が当てられた、というのが由来のようだ。

 さらに探し歩くと、地下鉄・西長堀駅の東、白髪橋交差点の中央分離帯の緑地に「大阪木材市売市場発祥の地」の石碑が見つかった。調べてみると市売とは木材の販売を委託された市売業者が市場で「せり」によって販売する方式だそうだ。「市売」に対して「付売」というのもあって、相対取引により山元から需要者まで直送する方式とのこと。市売市場は大阪ではここで初めて行われたそうだ。近くにあった説明板には「今でも北堀江の東側には、材木商の看板があちこちに残っている」とあった。

拡大「立売堀」の地名と関係の深い石碑

 ふと見上げると長堀通沿いに「大阪木材会館」の建物があった。外壁がまさに木材で覆われており、「大阪府木材連合会」とある。熱処理木材を使用してヒートアイランド現象の実証実験をしているのだという。

拡大木材会館だけあって外装も木がベース

 西区民センターへ行く。事務室に入ると吉田正太さん(28)が迎えてくれた。「立売堀の歴史について書いてある本はありませんか」と尋ねたところ、「大阪市西区 わがまち今昔じまん」というパンフレットを実費で譲ってくれた。江戸から明治、大正、昭和に至るこの街の発展について書かれてあり、現在のような姿になった理由がよく分かる内容だった。

 立売堀の北岸沿いには、古来、鍛冶町・釘屋町、立売堀鉄町・古金町という町名があり、十八世紀には、和鉄商の業者集団が商いをしていた。地域的には阿波座であるが、現在では町名も立売堀になっている。そこでは、鍛冶屋集団が錨や鋤鍬(すきくわ)鍛冶の仕事に従事していた。鉄鉱石は主に銑が山陰の石見から、鉄が出雲・伯耆から北前船により運ばれた。近代産業が育った明治三十年前後になると、船具商と軒を並べてガス管・水道管を扱う業者がこの地に台頭し、同時に管をつなぐ継手・バルブコック・鋲螺・ポンプ類、工事用の工具類が取り扱われるようになった。また、大正期に大阪臨海部が重工業地帯になると、船舶用の機械工具が大量に輸入され、爆発的に機械工具商が成長し、昭和十年代には千軒もの工具商が林立した。機械工具としての多業種にわたる商業集団であり、業種間の関連が深いので今も「鉄屋の町」としてのイメージが強い。

 「すぐ近くの図書館に詳しい資料があると思います」。吉田さんの助言に従い、西区民センターの並びにある大阪市立中央図書館を訪ねたのが1週間後の6月21日。「立売堀の地名の由来について調べています」と係の人に説明すると、「西六いまむかし 30周年記念誌」(西六連合振興町会)を見せてくれた。西六とは西区で6番目の行政区域という意味だそうだ。その中に次の四つの説が載っていた。

1)もと阿波座の阿波屋西村太郎助家の所有地だったが、寛永8年(1631)、新町廓ができたとき、敷地を割り売りしたので、断売堀、また居断堀の地名ができたと、西村家の家伝に記されている。

2)摂津名所図会大成によると、大阪冬の陣夏の陣のとき、伊達政宗が陣地を構え、要害の堀切をした跡を掘り足して川としたので、始めは伊達堀と呼んでいたのが、字音のまま伊達堀と言いならわしたという。

3)鼬がいたから鼬堀となり転化して立売堀になったという説もある。

4)もと材木の立売りが行なわれたので立売堀と書き、これを「いたちぼり」と転音して読むようになったという。

 2、4の説についてはすでに触れたが、「動物のイタチ」説もあったとは……

 木材の市場から機械工具の問屋街へ……。すっかり変わり果てた街にあって往時をしのばせるのは土佐稲荷神社だろう。6月22日、長堀通南側の同神社を訪ねた。ここは土佐藩蔵屋敷の鎮守社だった。土佐稲荷神社のホームページにこうある。江戸時代、土佐藩の大阪蔵屋敷に隣接する長堀川(現在の長堀通)鰹座橋のほとりに神社が祀られていました。その神社に土佐藩第6代藩主、山内豊隆が、京都の伏見稲荷から稲荷大神を勧請し、土佐稲荷神社としました。以来、土佐藩邸、蔵屋敷の守護神として崇められ、山内家は参勤の際には必ず立ち寄り参拝するようになりました。明治になって、廃藩置県後、藩営事業を継承した岩崎弥太郎がこの地を取得した後も、三菱の守護神として崇められました。その後、郷社に列せられ広く「土佐稲荷」の呼称で親しまれるようになりました。

 確かに、境内には岩崎家旧邸址の碑があった。

拡大土佐稲荷神社

拡大岩崎家の邸宅址を示す石碑

 それにしても、この難読地名で困っている人はいないのだろうか。6月24日、立売堀1丁目にあるその名もズバリ、「立売堀製作所」を訪ねた。消火栓、スプリンクラーなど消防器具を設計・製造する、業界では有名な企業だ。1936(昭和11)年の創業だという。この会社のホームページの「会社の概要」には社名に「イタチボリ」と片仮名でルビが振ってある。

拡大取材に応じてくださった立売堀製作所

 応対してくれたのが大阪支社係長の中島慶次さん(45)だ。いただいた名刺にも会社名にルビが振ってあった。「出身は大阪ではありません」という中島さんだが「伊達堀を字音通りにいたちぼりと呼ぶようになったのがいたちぼりの起源でしょう」とおっしゃった。ここに勤めておられるだけあって、さすがによくご存じだ。

 単刀直入に「難読地名を冠した社名ということで困ったことはありませんか?」と尋ねてみた。「かかってきた電話などでは『たてうりぼり製作所さん』と呼ばれることが多いですね。こちらから会社名を名乗った場合は、相手が『日立堀さん?』と日立製作所の子会社か何かと聞き間違えることもあります。そういうときは動物のイタチにお堀の堀と説明します」。しかし最後に中島さんはこう強調した。「立売堀は地元大阪ならよく知られている地名です。大阪以外の人であっても逆に一度知ってもらうとずっと覚えていてもらえるという有利さがあります」

 ごもっとも!

最終回は大阪の難読地名第3弾。CMでおなじみのアノ場所です。

(越智健二)

(次回は8月26日に掲載予定です)