文字
観字紀行
(2011/11/04)
愛知への旅の2回目です。
昔の「清須」城と今の「清洲」城。その間にあった「清須越し」とは?。清須の城と町の歴史を振り返ってみましょう。
城が最初に築かれたのは、室町時代。築城された当初は、五条川上流の現在の愛知県稲沢市にあった尾張守護所、下津城の別郭でしたが、その後守護所は清須城に移ります。そして戦国時代、名古屋の那古野(なごや)城を居城としていた織田信長が、清須織田家当主の織田信友を攻め滅ぼして清須城へ入り、尾張の拠点としました。そのころまでの清須城は、いまのような天守閣のある城ではなく、堀に守られた大きな館という感じだったようです(天守閣のある、いま「城」と聞いてイメージするような形は、信長の安土城が最初だといわれています)。その後、信長は小牧、安土と城を移り、清須へ戻ることはありませんでしたが、尾張の中心はずっと清須でした。
信長が明智光秀に討たれた1582年の「本能寺の変」の後、羽柴秀吉や柴田勝家らが清須城に集まり、信長の後継と領地の分配を決める会議が行われました。世に言う「清須会議」です。織田家の家督は、本能寺の変で信長と共に討たれた長男の子で、3歳の三法師が継ぐことになり……という話は大河ドラマにまかせて、清須城はというと、尾張を相続した信長の次男信雄(のぶかつ)が領主となりました。
信雄は、清須城を天守閣のある城に大改修し、堀を3重にめぐらせ、東西1.6キロ、南北2.8キロに及ぶ巨大な城塞都市を造り上げました。このときの城は、今の城の対岸にあり、橋を挟んだ今の城の場所には屋敷があったと考えられるなど、広大な敷地をもつものでした。城下町には6万人ほどが住んでいて、その当時の清須の繁栄は、現在の名鉄の駅名からも想像できます。城の最寄りの駅が「新清洲」で、そこから名古屋寄りの隣駅は「須ケ口」。清須の入り口だったのでしょう。さらにその隣は「丸ノ内」。2駅離れたこの場所も、清須の城の中だったのかもしれません。