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「ヨプ」記 ― 変換辞書のはなし9

比留間 直和

 いわゆるJIS外字をカナに置き換えた“JIS外字交ぜ書き”のうち、前回まで取り上げてきたトウ小平(鄧小平)や深セン(深圳)は、日本語読みでカナに置き換えた例ですが、日本語読みではない発音に基づいてカナに置き換えた“JIS外字交ぜ書き”もあります。

 典型例が、韓国・朝鮮関係の固有名詞です。

 

■韓国語読みの方がポピュラー?な字

 

拡大巨人時代の李承燁
 李承燁(イ・スンヨプ)。プロ野球ファンなら誰もが知っている、韓国人強打者です。韓国プロ野球でシーズン56本の本塁打記録を打ち立てたあと、2004年に日本球界入りし、千葉ロッテや巨人、オリックスで今季までプレーしました。

 李承燁の「燁」も、日本の情報機器に広く使われるJIS第1・第2水準(JIS X0208)にたまたま入っていなかったために、ネット上ではしばしば「李承ヨプ」または「李スンヨプ」と“交ぜ書き”されています。

 この「燁」の字は李承燁のほか、1997年に北朝鮮から亡命し、昨年死去した黄長燁(ファン・ジャンヨプ)元朝鮮労働党書記の名でも登場します。こちらもネット上では「黄長ヨプ」の表記がよく見られました。

拡大故・黄長燁氏
 「燁」を「ヨプ」と読むのはもちろん韓国語(朝鮮語)読み。1980年代半ばから、韓国・朝鮮人名の現地音読みが日本のメディアで広まりました。日本では「ぜん・とかん」と呼ばれていた全斗煥大統領(当時)が途中から「チョン・ドゥファン」と現地音読みになったことを覚えている人も多いでしょう。その昔は「きん・だいちゅう」でなじんでいた金大中氏も、今やすっかり「キム・デジュン」が定着しています。

 では「燁」の日本語読み(日本漢字音)をご存じでしょうか。つくりが中華の「華」だから「カ」? ではありません。

 ここで相撲好きの方なら、大相撲の元幕内力士「燁司(ようつかさ)」を思い出されるでしょう。2005年に引退して現在は竹縄親方となっていますが、このしこ名の通り、燁の日本漢字音は「ヨウ」です。

 ちなみに、旧仮名遣いでは「エフ」。韓国語の「ヨプ」と似ていますが、末尾の「フ」や「プ」は「燁」の古い中国音が「-p」で終わる音だったことの名残です。

 「燁」は「火のかがやくさま、あかるい」といった意味で、「燁(あきら)」「燁子(あきこ、ようこ)」など日本人の人名でも時折紙面に登場しますが、常用漢字や人名用漢字に入っておらず、1948年の戸籍法施行以降は子どもの名付けに使えなくなっているため、若い世代の名前には登場しません。

 燁司の引退からも既に6年が経っており、現時点では多くの人が「李承燁のヨプ」とか「黄長燁のヨプ」としてこの字を覚えているのではないでしょうか。ニュースサイトで「ヨプ」というカナ書きを目にすることで、さらにこの読み方が印象づけられていると思います。

 校閲記者同士で仕事中に「燁」の字を相手に伝えるときも、「火へんに中華のカ」といった“字解き”をするほかに、「李承燁のヨプ」などと言うこともあります。

 

■「りしょうよう」と言われても

 

 では、このへんの固有名詞は、仮名漢字変換ソフトではどう出てくるのでしょう。

 マイクロソフトの「Microsoft Office IME 2010」は、「いすんよぷ」で変換すると最新語辞書により、全て漢字の「李承燁」と、“JIS外字交ぜ書き”の「李承ヨプ」が出てきました。「ふぁんじゃんよぷ」や「ようつかさ」では、漢字表記も交ぜ書きも出てきません。

 

 Microsoft Office IME 2010

 

 ジャストシステムの「ATOK2011」を試したところ、標準辞書や人名辞書では「いすんよぷ」「ふぁんじゃんよぷ」「ようつかさ」は出てきませんでした。(オプションの辞書を使うと「いすんよぷ → 李承燁」は出てきました) 

 一方、グーグルが提供する「Google日本語入力」では、「いすんよぷ」で変換したところ「イ・スンヨプ」と「李スンヨプ」が出てきましたが、「李承燁」や「李承ヨプ」は出てきません。「ふぁんじゃんよぷ」でも、「ファン・ジャンヨプ」は候補に出るものの「黄長燁」「黄長ヨプ」は出ませんでした。

 

 Google日本語入力(1.2.825.0)

 

 ただ、このソフトは前回紹介したように、「深圳」を「しんしん」という読みで変換する“独自性”をもった製品です。もしや?と思って試したところ、やはりそうでした。日本語読みの「りしょうよう」で変換すると「李承燁」、同様に「こうちょうよう」で「黄長燁」が出てきました。

 

    

 

 もちろんそれぞれ正しい日本語読みであり、この読みから変換できることには何の問題もありませんが、「いすんよぷ」「ふぁんじゃんよぷ」からは「李承燁」「黄長燁」が出てこないというのは、多くのメディアの慣用から考えるといささか不思議に思えます。

 このほか、「ようつかさ」で変換すると「よう司」という交ぜ書きが出てきました。もし「燁司」を指したものであるならば、燁を「よう」に置き換えた“JIS外字交ぜ書き”だけでなく、漢字表記の「燁司」も出てきてほしいところです。

 

 

 

■「よぷ」で出る日が来るか?

 

 「ヨウ」よりは「ヨプ」でなじんでいる人が多そうな「燁」ですが、さすがに「よぷ → 燁」と変換してはくれません。

 しかし、日本語読みよりも現地音読みのほうがポピュラーになっている漢字は、ほかにもあります。

 2003年に盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏が韓国大統領が就任して間もないころ、盧武鉉の「鉉」1字を「ひょん」で変換しようとしているベテラン社員を見かけたことがあります。スペースキーを何度もたたき、「出ないなあ」と不機嫌そうにつぶやいていました。笑い話のようですが、気持ちは分かります。音読みは「ケン、ゲン」、訓だと「つる」などと読める字ですが、現代人にとってはやはり「盧武鉉のヒョン」です。

 ただし漢字1字であっても、代表的な姓などは、たいていの変換ソフトで「い → 李」「ぱく → 朴」「きむ → 金」のように韓国語読みからも変換できます。

 また、韓国語ではありませんが、「Microsoft Office IME 2010」では単漢字辞書で「ぎょう → 餃」を出すことができます。「餃」の本来の日本漢字音は「コウ、キョウ」ですが、この字は何といっても「餃子の餃」。「学研新漢和大字典」や「漢字源」のように“慣用音”として「ぎょう」を認める辞書もありますが、ギョーザは中国語の方言音に由来するとされており、日本の伝統的な漢字音ではありません。

 しかし漢字というのはもともと国境を超えた存在。比較的最近入ってきた外来音でも、いつの間にか深く根を下ろすことがあります。今の我々にとって、「ぎょう」から「餃」が出てくることに違和感はほとんど無いでしょう。

 一般名詞に使われるかどうかなどの違いはありますが、「通用している読みから効率よく漢字を打ち出す」という仮名漢字変換ソフトのあり方から考えれば、外来の漢字音がさらに変換辞書に取り込まれて、「よぷ → 燁」「ひょん → 鉉」などと変換するのが普通になることも、あり得ない話ではないように思います。

 

        ◇

 

 ここまで、「燁」の字がヨウよりもヨプで知られている、と強調してきましたが、実は漢字の世界では「燁」はある種「別格」ともいえる字です。あの「康熙字典」の編纂を命じた清の康熙帝の名が「玄燁(げんよう)」なのです。

 かつて、皇帝や貴人の名と同じ字を書くときは、はばかって最後の1画をわざと書かない「欠画(けっかく)」が行われました。「玄」も「燁」も、康熙字典では最後の画が無い字形で載っています。

 

 康熙字典・王引之校改本(上海古籍出版社)から

 

 「康熙帝の名」であり「欠画」の代表例でもある「燁」が、JIS第1・第2水準に入らなかったばかりでなく、今や「ヨプ」ぐらいでしか知られていないとすれば、それはそれで筆者個人としては少し寂しい気がします。

(比留間直和)