文字
観字紀行
(2011/11/18)
清須のお城と清須越しについて知ったところで、話を平成の世に戻しましょう。
そもそも、明治以来の清洲町から、2005年の3町合併で新市名が清須市になったために、地図上に『清洲』と『清須』が混在することになってしまったようです。「清洲」に定まって120年余りとはいえ、それまでの「どちらの字でも良い」時代とは違って表記がきちっと統一され、公的文書もそれまでとは比べものにならないぐらいの量が発行された期間だったでしょう。対外的にもすっかりなじんでいたと思われる「清洲」をやめて、「清須」に戻したのはどういう理由だったのでしょうか?
清須の3回目はこの謎を解きに、市役所へ向かいます。
訪問前に、インターネットで清須市のホームページで下調べです。やはり同じような疑問をもつ人から問い合わせがあるのでしょう、「市名『清須市』について」として「どうして『清須』になったのか、また、なぜ『清須』なのかということにつき、改めて整理しておこう」というコーナーがあり、歴史的背景を交えて郷土史家による文章が載っています。
それによると、このシリーズの前回、前々回でも書いたように「清須」のほうが古くから使われてきた表記であることと並んで、05年の合併が3町の対等合併だったということも大きいようです。このあたりの事情を市役所で聞いてみましょう。
市企画部企画政策課の鹿島さんに説明してもらいました。
記者 「漢字を変えると、看板の掛け替え費用や住民への周知が大変そうですけど、わざわざそうしたのはなぜなんでしょうか?」
鹿島さん 「『清洲』のままだと、合併する他の2町が清洲町に吸収されたという感情が生まれてしまいます。それを避けるためというのが一つあります。また、400年前に清須越しが行われるまでの清須城の城下町は人口5~6万人ほどだったといわれていて、今回3町が合併するとちょうど同じくらいの規模になるということもありました」
つまり、どこか一つの町への編入や吸収ではなく「対等」合併であるからには、すでにあるどれかの名前になっちゃいかん、と。う~ん、小さなことのように外の人間からは思えますが、住んでいる人の感情からすると見過ごせないようです。もし自分の地元だったら、と置き換えると想像はできますね。全国でこんな問題があったのでしょう、平成の大合併ではひらがな、カタカナの地名、北○○市などの周辺の大きな町に方角をつけた地名、全国どこでも使えそうな地名などが数多く生まれました。そう考えてみると、由緒があり、場所としても適合していて、かつ住民の皆さんが一つにまとまれるものがあった清須市は幸せな例かもしれません。