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文字

文字@デジタル

考えてしまうアシ

比留間 直和

 新年度がスタートして1カ月あまり。新聞社の各部署でも、人事異動で移ってきた仲間たちが仕事や職場になじんでくるころです。校閲部門にも何人かの新顔が加わりました。

 校閲という仕事柄、新聞のさまざまな用字用語ルールを覚える必要があるのですが、説明する方も聞く方もややこしくて苦労するのが、漢字の字体の基準です。

 

 「字体? 確かに面倒だけど、国語審議会が表外漢字字体表を出したことで、とっくに決着してるんじゃないの?」
 「それはそうですが、表外漢字字体表のあとに出てきたもののせいで、辞書によって扱いが分かれている字があるんです」
 「あとっていうと、おととしの改定常用漢字表?」
 「新しい常用漢字表で表外漢字字体表が一部ひっくり返されたところもありますけど、もともと漢字施策のなかでは常用漢字表が最上位だということはみんな分かっていますから、そこで解釈が分かれたりはしません。問題は、人名用漢字なんです」
 「人名用漢字?」

 

 2000年12月に当時の国語審が「表外漢字字体表」を答申したことによって、日本における字体の標準は、

《常用漢字表が根拠》
 常用漢字(当時は1945字)は、その字体
 
《表外漢字字体表が根拠》
 人名用漢字(常用漢字のほかに子の名に使える漢字。当時は285字)は、その字体
 それ以外のうち1022字種は、表外漢字字体表の「本表」に掲げられた印刷標準字体
 「本表」にも無い字は、「従来、漢和辞典等で、正字体として掲げてきた字体によることを原則とする」(前文)

 というふうに整理されました。

 人名用漢字はそれ以前から出版業界では事実上の字体基準として扱われており、表外漢字字体表も「前文」で「人名用漢字は常用漢字に準じて扱う」とまるごと追認しました。表外漢字字体表が具体的に印刷標準字体を示したのは、「常用漢字でない字」ではなく、「常用漢字でも人名用漢字でもない字」でした。

 この時点では、人名用漢字と表外漢字字体表の本表との間で重複はなく、解釈に揺れが生じることはありませんでした。

 しかし2004年以降、人名用漢字が大幅に増えたことで、事情が変わりました。現時点では、表外漢字字体表の本表に示された1022字種のうち354字種(常用漢字になった字種を除く)が人名用漢字に入っているのですが、このうち一つだけ、印刷標準字体を差し置いて別の字体が人名用漢字になっているものがあります。

 

■どちらのアシが標準?

 

 表外漢字字体表で印刷標準字体が示されたのに、それとは違う字体が人名用漢字に入っているのは、「芦」です。

 ※この文脈における「芦」は「草かんむりに戸の旧字体」です。2004年のJIS漢字改正以前のフォント(Windows XPのMSフォントなど)では「草かんむりに戸の新字体」で見えますが、細かい違いなので画像に置き換えずにそのまま記述します。手元の環境に応じて適宜読み替えてください。

 もともと「芦」は「蘆」の略字で、表外漢字字体表では、印刷標準字体=「蘆」、簡易慣用字体=「芦」、と示されました。簡易慣用字体とは、必要に応じて印刷標準字体にかえて用いても差し支えないとされる俗字体・略字体です。本表の1022字種のうち22字種について示されました。

 この時点では、「蘆」が標準で「芦」はその異体、という扱いで迷う余地はなかったのですが、2004年に「芦」だけが人名用漢字に入ったことから、どちらを標準として扱うのか、辞書によって対応が分かれてしまいました。

 最近発行された主な漢和辞典類で、「蘆」と「芦」のどちらを見出しの親字(代表字)にしているかをまとめたのが下の表です。右の列には、各辞典の凡例における親字の字体方針(人名用漢字や表外漢字字体表に関わる部分)を抜き出しました。

 なお、いわゆる「4画草かんむり」のような細かい違いをもつ異体字を併記する辞書もありますが、「どれが代表か」という問題には直接関わりがないので他の字体は割愛しました。

 

 参照した七つの辞典のうち、「蘆」を親字にするのが五つ、「芦」を親字にするのが二つあります。「新潮日本語漢字辞典」だけは人名用漢字と表外漢字字体表の優先順位を丁寧に示していますが、ほかの辞典は、両者の優先順位について明確な記述が無いか、説明と実態とがぴったり合ってはいないように見えます。

 

 「こういうケースでどうすべきか、国は決めてないの?」
 「人名用漢字を決めている法務省側は『人名用漢字は一般的な字体の標準ではない』という態度です。字体のよりどころと呼べるのは表外漢字字体表ですが、これは内閣告示や法律ではなく、審議会の答申に過ぎませんから……」
 「そういえば、2000年に答申されたあと、作り直したりはしてないんだったね」
 「ただ、上の表で分かるとおり、漢和辞典では新しい人名用漢字(芦)よりも表外漢字字体表(蘆)を上位に置くほうが優勢です。要は、表外漢字字体表の前文に書かれている“人名用漢字は常用漢字に準じて扱う”というくだりを、そのあと追加された人名用漢字にも適用するかどうかということですが、とりあえずは『拡大適用しない』派が多いわけですね」

 

■実情は「使い分け」

 

 この「蘆/芦」の字に限っていえば、新聞記事で植物の「アシ」を書くときには片仮名が原則ですし、有名なパスカルの言葉「人間は考えるアシである」などのアシにはたいてい「葦」(蘆・芦とは別の字)が使われます。また「芦ノ湖」「芦屋市」「京王線芦花公園駅」「徳冨蘆花」などの「芦/蘆」をそれぞれ逆の字体で表記することは、現代においてはほとんど考えられず、正式名称や表記習慣にあわせた「使い分け」が定着しています。

 結局のところ、「蘆と芦のどちらが標準か」は、実務上さほど大きな意味はない、というのが実情であり、世間一般でも、あらためて意識されることはめったにないでしょう。

 

 「でも、漢字としては蘆と芦が異体関係なのは間違いないよね。表外漢字字体表でわざわざ印刷標準字体を示したのに、辞書によってどっちが標準かが揺れてるってのも変な感じだなあ。国語辞典はどうなってるの?」
 「『あし』を引くと、表記としては『葦、蘆、葭』を掲げていることが多いですね。『芦』を併記しているものや、『芦は蘆の略字』とわざわざ記しているものもあります」
 「アシのほかにも、人名用漢字のせいで辞書によって字体が違っている例はあるのかな?」
 「実は、あります。漢和辞典じゃなくて国語辞典のほうですけど」

 

 誰もが知っている、あの辞書です。

(つづく)

(比留間直和)