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観字紀行

これを持ってりゃウマくいく?~左馬を訪ねて(2)

森本 類

拡大舞鶴山の坂。少し急でした

 縁起物とされる「左馬」のルーツを探るべく、将棋の街・山形県天童市を訪れた筆者。今回は、将棋駒の橋が架かる倉津川から南へ足を延ばして、舞鶴山(天童公園)へ向かいます。少しきつめの坂をえっちらおっちら上っていくと、「将棋の森」の立て看板を見つけました。1988年に天童市の市制施行30周年を記念してつくられた森で、将棋駒の材料に使われるマユミ、ホオノキ、ハクウンボウ、ウリハダカエデ、イタヤカエデ、ツゲの木が植えてあるそうです。

 さらに歩を進めると、天童に春を告げる風物詩になっている「人間将棋」の会場が目の前に開けます。毎年プロ棋士が対戦し、昨年は山形県の高校生が甲冑(かっちゅう)や着物を着て駒を務めました。今年は4月20、21日に開催されます。もともとは豊臣秀吉と関白の秀次が、小姓と腰元を駒に見立てて野試合を楽しんだのが由来とされていて、駒を終日野外で遊ばせる供養の意味もあるそうです。

拡大中央のくぼみが人間将棋の会場
拡大昨年の人間将棋

 人間将棋の観客席になる斜面を上りきった先に立っているのが「王将」と書かれた「将棋塔」。大山康晴十五世名人の書で、天童市のシンボルといいます。会場を見下ろすその姿には、威厳が感じられました。

拡大人間将棋の観客席になる斜面
拡大斜面のてっぺんにある将棋塔

拡大吉田大八の銅像

 この公園には、一人の武士の銅像も立っています。山形県といえば、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」に描かれた上杉家の米沢藩、藤沢周平の小説の舞台として知られる庄内藩がありますが、このあたりは織田氏がおさめる天童藩でした。銅像は天童藩中老、吉田大八(1832~68年)の姿です。2万石の小藩で、江戸時代の終わりごろに財政が厳しくなり、藩士の生活は困窮をきわめました。救済策として将棋駒の生産を奨励したのが、大八でした。武士が内職をすることに反対する声もあったようですが、「将棋は戦闘をねる競技であるから、武士の面目を傷つける様な内職ではない」と考えを曲げませんでした。天童が将棋の街となる礎を築いたのです。

 大八は「勤王の志士」としても知られます。天童藩主の織田信学(のぶみち)は戊辰戦争で奥羽鎮撫使先導を命じられ、大八は先導名代になりました。しかし、天童藩は庄内藩と戦った末に大敗。城下は焼きうちにあい、奥羽列藩同盟から大八の身柄の引き渡しを要求されます。大八は藩に害が及ばぬよう自ら米沢藩に捕らえられ、切腹して生涯を閉じます。

拡大雪に包まれた仏向寺

 舞鶴山のふもとには、大八の眠る「仏向寺」があります。ここは、1951年にタイトル戦の一つ、王将戦が初めて行われた場所でもあります。

 街歩きのなかでたくさんの将棋駒に出あいましたが、実際に使われる将棋駒をまだ見ていませんでした。そこで、街なかへ戻って将棋駒づくりの実演をしているというお店を訪ねることに。