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文字@デジタル

朝日字体の時代 1

比留間 直和

 朝日字体を知っていますか。

 ひとむかし前まで、日本の漢字施策において、表外漢字(常用漢字表にない漢字)の字体をどうするかは大きなテーマの一つでした。そのなかで、賛否両論ありながらも一定の存在感を示していたのが朝日字体です。

 朝日新聞が朝日字体の旗をおろしてから、すでに6年あまり。最近入社した若い記者たちにとっては、全くなじみのない言葉になりつつあります。取材部門のみならず、漢字の形をふだんから気にしなければいけない校閲センターにおいても、です。

 文字@デジタルではこれまでも過去の朝日新聞の字体に何度か言及してきましたが、このへんで朝日字体とはどういうものだったのか、あらためて振り返ってみたいと思います。

 

■2007年1月、その日は来た

 

 ここに、2007年1月15日付の朝日新聞朝刊があります。東京本社版でいうと11面に、「漢字、世につれ/朝日新聞の字体 一部変わります」と題した特集ページが掲載されました。

 

拡大2007年1月15日付朝刊11面(東京本社版)

 

 特集ページは、朝日新聞が戦後つづけてきた「表外漢字における略字主義」をやめることを読者にお知らせするために作られました。表外漢字にも、表内の漢字と同様のやりかたで略した字体が、朝日字体です。

 このページでは、「伝統的な『康熙字典体』に」と題し、朝日新聞社の三浦昭彦編集担当(当時)が字体変更について説明しています。少し長いのですが、全文を紹介します。

 

 

 
 新聞1ページにはざっと6千の文字が入り、朝刊は記事だけで10万字以上が並びます。そのうち漢字は常用漢字が約98%で、それ以外の「表外漢字」はごくわずかです。
 今回変更する「朝日字体」はその表外漢字の部分ですが、朝日字体の生まれた経緯を考えれば重要な転換だと思います。
 1946年に内閣告示された当用漢字表は、やさしい国語表記の実現を目指し、漢字に一定の使用枠を設けるものでした。ある新聞が「漢字を廃止せよ」と社説で主張し、小説の神様・志賀直哉も「フランス語を国語に」と書いた時代です。
 3年後、活字を簡略な手書き文字に近づけた、当用漢字字体表ができました。しかし、建前上使わないことになっている表外漢字の字体は示されませんでした。朝日新聞はそれを補おうとしたのです。
 印刷を担当する活版部を中心に、1文字ずつ詳細に検討を重ねたと記録にあります。当用漢字が導入したヘンやツクリの簡略体を応用して、例えばカモメ(鷗)は「區」を「区」にした「鴎」を採用しました。
 新聞づくりに必要な漢字として、当用漢字を含む4千字を選び、活字の形を整えていきました。一通りそろったのは56年です。その後も60年まで改訂を重ねました。
 一方、印刷会社の多くは、表外字に伝統的な「康熙(こうき)字典体」を使い続けました。
 当用漢字の強い制限色は81年の常用漢字表で「目安」へと緩められましたが、簡略字体は受け継がれました。JIS(日本工業規格)の漢字コードにも略字が多数採り入れられました。
 しかし90年代以降、情報機器の爆発的な普及で難しい漢字も簡単に打ち出せるようになったことから、パソコンの表外漢字の字体が辞書や書籍と異なることが問題になりました。これを受けて国語審議会は2000年「表外漢字字体表」を答申。辞書や書籍の慣行を追認し、康熙字典体を標準と位置づけたのです。04年にはJIS漢字も答申に合わせて改正されました。
 表外漢字字体表には様々な見方がありますが、多くの人が読む印刷物の字体に著しい不統一が続くのは、好ましいことではありません。改めて検討を重ねた結果、答申を尊重して字体を変更することにしました。
 朝日字体はなくなりますが、日本語表記をできるだけやさしく身近なものにする願いは変わりません。私たちはこれからも検討と努力を続けます。
 

 

 

 「朝日字体」や「表外漢字」といった言葉になじみのない読者にとっては、あまりピンとこなかったかもしれません。それでも、朝日新聞の活字の歴史の上では、これは大きな転換点でした。

 編集担当からの説明にもあったように、戦後の国語政策のなかで、当用漢字表(のち常用漢字表)に入った字については標準の字体が定められましたが、それ以外の字(表外漢字)については統一的な字体基準が示されないままでした。しかし新聞をはじめとする出版物では、表外漢字も必要です。ではどういう字体方針で活字をつくればよいのか。それを自ら考えた結果が、朝日字体でした。

 上に挙げられているカモメ(鷗→鴎)のほか、冒トクのトク(瀆→涜)、祈トウのトウ(禱→祷)などが、その代表例です。

 

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 朝日新聞では、2007年に表外漢字の字体を、2000年の国語審答申「表外漢字字体表」に従って変更するまで、こうした考え方に基づく略字体を約半世紀にわたり使っていたのです。

 

■「鴎」のはじまり

 

 初期の朝日字体の姿を、実際の紙面で見てみましょう。

 戦後の朝日新聞(縮刷版)で、筆者が見た限り、略字体の「鴎」が記事に使われた最初のケースと思われるのが、1952年11月10日付朝刊7面の「文化切手の顔」第10回です。

 

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 ごらんのように、見出しは康熙字典体の「森鷗外」ですが、本文中は略字の「鴎外」。この時代、当用漢字であっても「本文は新字体だが、見出しはまだ旧字体」ということがごく普通に見られました。コンピューター組み版ではなく、鉛の活字を一本一本用意しなければならない時代のことですから、そこまで整備ができていなかったのです。表外漢字を独自に略した「鴎」なども、見出しの活字はまだまだ追いついていませんでした。

 この「文化切手の顔」というシリーズは、日本の近代の文化人をテーマに1949年から52年にかけて発行された特殊切手(一般に「文化人切手」と呼ばれています)にちなみ、そこに描かれた人物をそれぞれのゆかりの人の話を通じて紹介する連載で、1952年11月1~18日付の朝刊に掲載されました。

 登場した文化人は、初回から順に、野口英世、福沢諭吉、夏目漱石、坪内逍遥、九代目市川団十郎、新島襄、狩野芳崖、内村鑑三、樋口一葉、森鷗外、正岡子規、菱田春草、西周、梅謙次郎、木村栄、新渡戸稲造、岡倉天心、寺田寅彦の18人。

 漢字の字体問題にくわしいかたなら、今挙げた名前を見て、森鷗外のほかにも独自の略字体が使われていた例があるのでは?と思われたのではないでしょうか。ご明察の通りです。

 まずは坪内逍遥(11月4日付)。見出し=写真左=は康熙字典体の「逍」「遙」ですが、本文=同右=の「逍」はつくりの点の向きが表内字の「肖」と同じ形になり、しんにょうも1点です。「遥」も康熙字典体の「遙」ではなく、「(旧)搖→(新)揺」や「(旧)謠→(新)謡」と同じようにつくりが略され、1点しんにょうになっています。この「遥」は、こののち1981年に略字体で人名用漢字に入ったため、現在では国語辞典や漢和辞典でもこの略字が標準とされていますが、このときはまだ人名用漢字ではありませんでした。

 新島襄(11月6日付)の「襄」も、見出しは康熙字典体ですが、本文は「(旧)讓→(新)譲」と同じように、なべぶたの下の「口ふたつ」が「ハ」になっています。樋口一葉(11月9日付)の「樋」は、康熙字典体は2点しんにょうですが、見出し・本文ともに1点しんにょうに見えます。

 このように、「文化切手の顔」が連載された1952年ごろには、当用漢字の略し方を表外漢字にもあてはめた「朝日字体」の主なものが、少なくとも本文文字ではすでに使われ始めていたのです。

 

■朝日の「4000字」とは

 

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 冒頭で紹介した2007年1月15日付の特集ページで、編集担当が「新聞づくりに必要な漢字として、当用漢字を含む4000字を選び、活字の形を整えていきました」と述べています。表外漢字の字体設計も、この「4000字」の枠組みのなかで進められていました。

 当時の朝日新聞が活字を整備した「4000字」とは、どういう内容だったのか。何を略して、何を略さなかったのか。

 それを示す社内資料が、「統一基準漢字明朝書体帳」という冊子=写真=です。1956年12月の版から1960年9月の版まで、計4種類が確認されています。

 この「書体帳」冒頭の「作成についての説明」には、漢字の字体に関して次のように記されています。

 
 各字体については当用漢字字体表のほか前記参考書(漢和大字典、康熙字典、当用漢字辞典、歳時記など=引用者注)によって慎重に再検討し、略体については使用度の低い外字中に略体を採用すると、見なれないため読めなくなるような字は、そのままとしたが、なるべく漸進的に略体とする方針を採っているので、一般的にはやや行過ぎと思はれる書体もある。しかしいわゆる俗字(仐、仂、耺の類)は採用していない。「筆おさえ」については、今後の書体の統一を乱すと思はれるので、これらのものは全部取ることとした。
 

 「使用度の低い外字(表外漢字)はそのままとした」という一方で、「一般的にはやや行過ぎと思われるものもある」と述べており、ひとつひとつ考えながらの作業であったことがうかがえます。

 

 次回以降、この「書体帳」の中身を見ていきたいと思います。

 

(比留間直和)