メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

文字

観字紀行

極楽へ行ってきます(1)

拡大地上に極楽が存在しました
 「極楽」と聞いて、みなさんは何を想像されるでしょうか。お寺や「死んだら行きたい」と思われる方が多いかもしれません。安らげるイメージから温泉を連想される方もいらっしゃるでしょう。

 広辞苑を引いてみると、(1)阿弥陀仏の居所である浄土(2)きわめて安楽な場所や境遇、とあります。それだけに、「極楽」を名に冠したお寺や温泉は全国に多くあります。ただ、別の由来を持つ「極楽」もいくつか存在します。そんなちょっと珍しい、「地上の楽園」ならぬ「地上の極楽」を探るべく、全国3カ所を訪ねます。

拡大今回訪ねた場所
 初回に訪ねたのは名古屋市名東区「極楽」です。地図を広げても、付近に地名と関連しそうなお寺などは見当たりません。なぜ、忽然(こつぜん)と「極楽」という地名が現れるのでしょうか。ネットで検索してみると、名東区のホームページにヒントがありました。

 (1)1584(天正12)年の長久手の合戦の時に敗れた兵たちがこの地にたどり着いて「ここは極楽だ」と言い合った(2)洪水の多い低地から安住の地を求めてきた人々が極楽の地とした、という2説があるようです。「洪水避難説」は木曽川などがあるのでもっともに思えますが、「落ち武者説」は歴史のロマンを感じる一方、色々疑問がわいてきます。市に問い合わせても詳しいことは分からず、直接、足を運ぶことにしました。

拡大ここが極楽の3丁目
 名東区は文字どおり、名古屋市の東部に位置します。そのなかでも最も東側にあるのが「極楽地区」で、2005年に愛知万博が行われた愛知県長久手市や日進市と市境を接しています。

拡大極楽ライフはこの住まいから
 今回は名古屋駅から地下鉄東山線に乗って約30分、本郷駅で下車して市バスに乗り換えました。運賃は200円。約10分で「極楽」のバス停に到着です。

拡大極楽な老後が約束されています
 なだらかな坂の多い新興住宅街で、1丁目から5丁目まであり、約3500人が暮らすそうです。保育園や小学校、郵便局などに極楽が付くのはわかりますが、よく見ると「ドリーム極楽」「極楽館」などマンションの名称にも使われています。

拡大縁起の良さも極め付きです
 なかでも、驚いたのはうどん屋さん。うどんチェーン「長命うどん」の「極楽店」の存在です。「長命」というだけでも縁起がいいのに、その「極楽店」となると更にありがたみが増す気がします。

拡大極楽で長生きしましょう
 他にも「極楽」を冠したもののオンパレード。縁起がいいこともあって、地域に愛されている地名なんだと実感します。

拡大施術を受ければ極楽気分
 周辺には大学やゴルフ場も点在し、多くの小動物が生息する雑木林「猪高緑地」も残るなど、220万都市の名古屋に残る「自然の楽園」です。

拡大受験勉強も極楽気分
 「極楽」をあちこち散策したのですが、直接、「落ち武者説」につながる史跡は発見できませんでした。

 このままでは手ぶらで帰ることになりかねません。どうやら「長久手の合戦」について探る必要がありそうです。主戦場はお隣の長久手市。そこで、強力な助っ人に登場してもらうことにしました。長久手市郷土史研究会会長の中野鉄也さん(71)です。

 この合戦は、本能寺の変後に台頭してきた羽柴(豊臣)秀吉と、それに不満を持った織田信長の次男信雄と徳川家康の連合軍の戦いです。1584年5月17日、両軍が数時間に及んで戦火を交え、秀吉側に2500人余り、家康側には550人余りの死者が出たとされます。合戦の中でも最大の激戦地となった「仏ケ根」は、「極楽地区」から直線で東に1里(約4キロ)ほどしか離れていません。現在は田んぼや住宅街の間に「古戦場公園」が整備されているほか、辺りに激戦を伝える史跡も点在します。

拡大長久手古戦場の石碑
 日本公園緑地協会などが定めた「日本の歴史公園100選」にも選ばれたという公園を訪ねると、敷地内はこんもりと木々が茂り、入り口付近には「史跡 長久手古戦場」という高さ約2.5メートルの石碑が堂々と立っています。

 合戦の舞台となった長久手の地形を模した広場もあり、家康や秀吉になった気分で戦略を練ってみるなど当時に思いを馳(は)せることもできます。合戦400年を記念して出来たという2階建ての郷土資料室もあり、音声案内付きの迫力あるジオラマで合戦の概略を学んだり、古文書を見たりすることができます。

拡大勝入塚
 公園内外には戦国武将が倒れた場所が点在しています。秀吉に奇襲攻撃を提案したとされる池田勝入(恒興)の戦死した場所には「勝入塚」と立派な石碑が立ち、国指定の史跡になっています。長男・元助もこの合戦で戦死し、「庄九郎塚」が残っています。

 勝入の次男・輝政は生き残り、後に姫路城(兵庫県)の城主となりました。姫路城の大改築を行ったのですが、もしここで討ち死にしていたら、現在の壮麗な姫路城の姿は見られなかったかも知れません。中野さんは「この時に姫路城下の人々は酷使されたので、輝政のことをいまだによく思っていない節がある」とおっしゃいます。筆者は生まれも育ちも姫路ですが、「今の姫路城があるのは輝政のおかげ」と教えられた記憶はありません。城主がよく代わっているということもあるのですが、輝政の存在感も正直、あまり強くありません。もしかしたら、中野さんのご指摘のように、輝政に対する「歴史上の恨み」が郷土史教育に潜在的に影響しているのかも知れません。

拡大心なしかおどろおどろしく見えます
 話はそれましたが、公園を出て少し歩いていると、住宅地の中でぎょっとするものを見つけました。広場とベンチがあるだけのごく普通の小さな公園なのですが、入り口の碑にはなんと「血の池公園」とあります。合戦に参加した兵らが池で血のついた槍(やり)や刀を洗い、赤く染まったとされる池があり、これを埋め立てたのがこの公園なのだそうです。

 中野さんが聞いた話では、埋め立てられる前には、合戦のあった5月17日前後になると水面が赤くなるという伝説があったとか。実は、もっと生々しい地名もあったそうですが、縁起が良くないなどの理由で今は違う地名になっているそうです。

拡大色金山には家康が腰掛けて軍議を開いたとされる「床机石」があります
 公園から北東に1キロほどいくと、家康が陣を構えたという色金山があります。

拡大首塚には今も花が絶えません
 その近くに「極楽」とは対照的な場所があります。「首塚」です。色金山のふもとにある安昌寺の和尚(おしょう)と周辺の村人たちが、敵味方関係なく戦死者を埋葬して塚を築き、供養したそうです。塚の上には松の木などが植えられているほか、明治時代に建てられたという碑もあります。今でも手入れがされ、花や線香、お供え物が手向けられていました。ここに眠る兵らの無念が偲(しの)ばれます。

 さて、「山に逃れ、命を全うしたから極楽となった」と伝えられている通り、戦場から逃げのびた兵は本当にいたのでしょうか。中野さんに当時の古地図を見せてもらうと、長久手古戦場の西側は山地になっています。位置的には現在の「猪高緑地」あたりになりそうです。

拡大色金山から古戦場を望む
 さっそく、一緒に長久手古戦場から「極楽地区」へ車で向かってみます。住宅地が続きますが、「つい20年ほど前までは丘陵地帯だった」そうです。猪高緑地の最高地点は海抜108.6mで、ここが名東区との境界です。なだらかに上下しながらも、名東区側に向かっては上り勾配になっていて、市境を越えた先が極楽地区になります。

 中野さんは「地理的にも近く、逃げ延びた可能性は十分ある」と言います。では、家康方、秀吉方、どちらの兵だったのでしょうか。明確な史料がないため断言することは出来ませんが、敗れた秀吉側の兵だったのでは、と中野さん。戦場から命からがら逃げ出し、ともすれば傷ついた身体にむち打って「猪高緑地」を必死に登って「向こう側」にたどり着いた者にとって、戦場の血なまぐさい空気が届かなかったであろうその地は、まさに「極楽」と思えたに違いありません。

 大都会の名古屋に「極楽」があるなんてどうしてだろう、という素朴な疑問から始めた旅でしたが、歴史をさかのぼってみると、かつて戦場を逃れた兵らの安堵(あんど)の念が込められた地であることを知る旅となりました。

 次回は、岐阜県恵那市の「極楽駅」を訪ねます。

(池上碧)

 

(次回は12月13日に掲載予定です)