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観字紀行

たかが「お」、されど「お」(中)

永川 佳幸

 お台場に広がる砂浜で遊ぶ観光客を横目に、北へ10分ほど。レインボーブリッジへと続く道を左手に折れると、台場公園にたどり着きます。園内は夏の日差しを浴びた雑草が幅をきかせるように背丈を伸ばし、歩くのにも一苦労なほどです。

拡大台場公園。後方にお台場が見える
 近くに住む藤岡勝美さん(63)は、ジョギングがてら公園によく足を運ぶといいます。「お台場に来るのは、買い物やレジャー目的の人がほとんど。ここまで足を延ばそうという人は珍しいんじゃないかな。その分、静かだから、ゆっくり過ごすにはいいんだけど」。海に囲まれた公園。視界を遮るものがなく、お台場の景色を堪能できるところがお気に入りなんだそうです。

 台場公園の歴史は、今から150年以上も昔にさかのぼります。

 〈太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず〉

 江戸時代末期の1853年。米国から艦隊を率いて日本にやって来たペリー提督が、外交・貿易を禁止する鎖国政策をとっていた日本に対し、開国を要求。いわゆる黒船来航と呼ばれる事件です。

 予想だにしない来訪者に幕府は大慌て。先ほどの歌には、上喜撰(じょうきせん=上等なお茶)を飲んで目がさえて寝られなくなった様子になぞらえ、4隻の蒸気船の登場にうろたえる江戸を揶揄(やゆ)する意図が込められています。

 事件を機に幕府は海防能力の強化を迫られます。外国艦船からの攻撃に対応できる大型船を満足に持っていなかったため、代わりに地上からの砲撃で対応しようと考案。ペリー来航から1年の間に、海を埋め立てて次々に砲台を設置しました。

拡大礎石が並ぶ詰め所跡
 この砲台が置かれたのが、現在のお台場周辺。その跡地を整備して一般に開放した場所が台場公園です。5メートルほどの高さの石垣の上に築かれた公園は、1辺が約160メートルのほぼ正方形。敵からの攻撃を避けるためか、くぼ地になっているのが特徴です。

 敷地中央に今も残る、規則正しく並んだ石の塊。この上には当時、砲台の守備を任された兵士たちの詰め所がありました。結局、大砲が実戦に用いられることはありませんでしたが、詰め所で寝食を共にし、交代でその任にあたったといいます。

拡大レプリカの砲台

 南側の土手には砲台が二つあります。そんなものまで残っているのかと、驚いたのもつかの間。案内板には「砲台跡は江戸時代のものではありません」の注意書き。できれば知りたくなかった……。

 砲台は幕府や各藩の手によって全国各地に築かれました。砲台が置かれた場所を由来とした「台場」という地名が残る東京都港区をはじめ、公園や史跡として整備された砲台跡が各地に残ります。

拡大
 砲台は幕府や藩が領地を守るために設置したものです。人々はいつしか砲台がある場所を、お上への敬意を込めて「御(お)台場」と呼ぶようになりました。たかが「お」、されど「お」。そこに込められた思いを知れば、たった1文字と侮ることはできません。

 時は流れて、敬う相手がいなくなった今、私たちはなぜ台場に「お」をつけるのでしょうか。考えてみると不思議なものです。

拡大第6台場。こちらは立ち入りが禁じられている
 昭和に入り、海上に造られた砲台は東京湾整備の過程で次々に撤去されていき、今では二つが残るのみとなっています。後に台場公園となる第3台場(地図の③)と、公園から西に500メートルほどの距離にある第6台場(地図の⑥)が国の史跡に指定されています。

 残りの砲台は海の中に沈んだり、周囲を埋め立てられたりして姿を消しました。しかしながら、かつて砲台があった場所を訪ねてみると、各地でその名残を感じることができます。

拡大港湾関係者のみならず、一般人も利用可能だ
 海を挟んでお台場の対岸に浮かぶ品川埠頭(ふとう)。1967年にオープンした日本初のコンテナ埠頭は、第1(地図の①)と第5台場(同⑤)の周囲を埋め立てて造られました。それにちなんで、埠頭の北東部には品川台場食堂という名前の飲食店があります。食堂は周辺施設で働く作業員らの憩いの場に。茨城県からトラックで荷物を運んできたという男性は「てっきりお台場がよく見えるぐらい近いから、勢いで台場って付けちゃったのかと思ってた」と驚いた様子です。

拡大シーフォートスクエア
 埠頭から西へ500メートルほど。近代的な街並みが広がる天王洲アイルも、砲台跡地の付近を埋め立てて造られました。一角に、ホテルやオフィスビルが立ち並ぶ「シーフォートスクエア」と呼ばれる地区があります。シーフォート(Sea Fort)は、直訳すると「海の砦(とりで)」。当時の面影を感じさせる、粋なネーミングではないでしょうか。敷地の足元を支える石垣には、第4台場(地図の④)の石が再利用されていると言われています。

拡大石垣が敷地の周囲をぐるりと囲んでいる
 砲台の建設は、山を切り崩して土砂を運び、海を埋め立てる必要があったため財政的に非常に厳しいものがありました。品川沖に11基の砲台をほぼ一直線に並べる計画も、五つ完成させるのがやっと。二つが途中で放置され(地図の④と⑦)、残りは着手すらされませんでした。
拡大この記念碑にも当時の石垣が使われている

 計画変更を余儀なくされた幕府は、代わりに、埋め立てる必要のない陸上に砲台を設置することにしました。天王洲アイルからさらに西へ進むこと700メートル。砲台建設のための土砂を採取していた山のふもとに築かれた御殿山下台場の周辺は、今ではすっかり住宅街となってしまいました。かつてこの近くに海があったなんて、周辺を歩くだけでは想像すらできません。跡地に立つ小学校の校門脇に設置された記念碑が、かろうじてその記憶をとどめています。

 

 さて、かつての城下町・東京には、お台場以外にも幕府にまつわる「お」が各地にあります。最終回は、お台場と同様に「お」が付く街と、逆に「お」がなくなった街を歩きます。

(永川佳幸)

=次回は11月15日に掲載予定です