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観字紀行

たかが「お」、されど「お」(下)

永川 佳幸

拡大神田川沿いにあるJR御茶ノ水駅
 かつての城下町・東京には、お台場以外にも幕府にまつわる「お」が多くあります。

 東京駅から北へ2キロほどの場所を東西に流れる神田川。川を挟むようにして、文京区湯島と千代田区神田駿河台にまたがって、お茶の水と呼ばれる地域が広がっています。明治大学や東京医科歯科大学などの大学や専門学校が集まり、通りには楽器店が軒を連ねます。近くの大学に通う学生でしょうか、ギターケースを背負った若者の姿が目立ちました。

拡大周辺には約50の楽器店がひしめく
 恥を忍んで告白すると、お茶の水女子大学はてっきりお茶の水にあるものだとばかり思っていました。実際は、北西に4キロほど離れた場所にキャンパスがあります。前身の女子師範学校がお茶の水(現在の文京区湯島1丁目)に開校したことが名前の由来だったんですね。いやはやお恥ずかしい。

 さて、話を戻しまして「お茶の水」の由来です。「お」に込められた先人の思いとは何なのでしょうか。

拡大お茶の水の碑
 JR御茶ノ水駅前の交番脇にひっそりと立つ、お茶の水の碑。碑石には、次のように刻まれています。

 〈聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり 神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし〉 「再校江戸砂子」より

 碑を管理するお茶の水保勝会によると、江戸の昔、この辺りにおいしい水が湧き出る寺があったそうです。第2代将軍・徳川秀忠に茶をたてる水として献上したところ、秀忠はその味をひどく気に入り、それからというもの毎日のように水を届けさせるようになったと伝えられています。

拡大駅名として残る上野の御徒町
 「お茶をいれるための水が湧いていたから『お茶の水』と付けるなんて、そのまますぎる名前ですよね」と話すのは、近くのカフェで働く橘恋雪(こゆき)さん(28)。「でも、水を愛してくれた幕府への感謝の気持ちが『お茶の水』という地名には込められているような気がします」

拡大観光客らでにぎわうアメ横商店街
 アメ横商店街で有名な台東区上野の御徒町(おかちまち)の「御」も、幕府に関係しています。馬に乗らず徒歩で戦う下級武士・徒士(かち)がこの辺りに多く住んでいたことが名前の由来。徒士に関係する地名は全国の城下町で見られ、「御徒町」のほかに「徒士町」や「徒町」と多少の違いはありますが、愛媛県宇和島市や青森県八戸市などでは住所に今もその名が残っています。

 一方で、徳川家による治世が終わりを迎え、明治新政府が成立したことで、幕府への敬意の象徴である「お」が消えた土地も多くあります。

拡大浅草御蔵跡碑
 幕府が領地から集めた年貢米を保管する倉庫が集まっていたことが地名の由来である台東区・蔵前。当時、隅田川を埋め立てるなどして整備された船着き場には、各地から米を運んできた船が幾隻も停泊していました。川沿いに立つ碑によると、倉庫前には米問屋などが立ち並び、一帯はお台場やお茶の水と同じように「御蔵前」と丁寧に呼ばれていましたが、それも幕末までのことだったようです。

 かつて倉庫が立ち並んでいた川沿いは遊歩道として整備され、当時の面影はほとんど残っていませんでした。倉庫造営用の資材を運ぶ船の安全を祈るために創建された揖取(かじとり)稲荷神社が、閑静な住宅街の中で異質な存在感を放っています。

拡大揖取稲荷神社
 武具を管理していた役人の屋敷があった御箪笥町、茶礼・茶器をつかさどった役人が住んでいた御数寄屋町、御殿の清掃を担った役人が集まっていた御掃除町。江戸時代に存在していたこれらの町はいずれも、明治以降に「御」が付けられなくなったり、町名そのものがなくなったりしました。

 お上を敬う気持ちから生まれた「お」。本来ならば、蔵前などのように消えていくのが自然なのかもしれません。幕府が倒れて約150年が過ぎた今でも、「お」がつく町に住む人たちはどう思っているのでしょうか。

 御徒町にほど近いアメ横に店を出して20年という金杉茂実さん(52)は、「お」の由来に「今さら幕府への敬意なんて言われてもぴんと来ないなあ」と話します。少ししゃがれた声で客を呼び込みながら、「じゃあこれからは、景気の悪い中でも、これだけたくさんのお客さんが来てくれるような町に育ててくれた先輩たちへの『ありがとう』の気持ちを込めようかな」。

(永川佳幸)

=おわり