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朝日字体の時代 11

比留間 直和

 活字の書体帳や見本帳は、「どんな形の活字か」「どんな字をそろえているか」ということに加えて、「作り手が『文字の違い(区別)』をどうとらえているか」を見ることのできる資料でもあります。

 JIS漢字やUnicodeといった文字コードの世界では、形の小さな違いに対して別々の番号(コード)を振るかどうかが議論の対象となりますが、鉛活字の時代にも、「この字とあの字を区別するのか否か」が活字のセットによって異なる場合がありました。今回は、そうした例が登場します。

 では引き続き社内資料「統一基準漢字明朝書体帳」第3版(1960年9月)に沿って、独自の略字「朝日字体」をはじめとする、戦後の朝日新聞の活字字体を振り返っていきましょう。

 

■小さな違いもきちんと区別

 

拡大p21
 今回は21ページから。 1行目は、「こころ(心)」の表外字の末尾です。
  は憤懣の「懣」を当用漢字の「滿→満」にならって略した朝日字体です。2007年1月に国語審答申「表外漢字字体表」(2000年)に従って表外漢字の字体を大幅に変更してからは、康熙字典体の「懣」を使っています。

 続いて「ほこづくり(戈)」です。 の2字はよく似ていますが別の字で、前者はジュと読み「まもる」という意味、後者は音はジュツで「いぬどし」のいぬです。筆で書いたらまず区別できない違いで、他の漢字の一部分だったら「活字設計上のデザイン差」とされるようなレベルです。実際、2010年に新たに常用漢字となった「蔑」は、下半分が「戍」でも「戌」でもかまわないことが「改定常用漢字表」に明記されています。
 しかし、大胆な略字主義をとった戦後の朝日新聞も、独立字の「戍」と「戌」についてはきっちり区別をしていました。その一方で、書体帳では、わずかな形の違いを区別せずに「統合」していた例もありました。しばらくあとに出てきます。

  は「えびす」。しかしどこか違和感を持たれるかもしれません。ふつうこの字の左下はカタカナの「ナ」のような形に設計され、現に書体帳の最初の版(初版A)では でした。二つ目の版(初版B)以降が掲げる形は、そこが漢数字の「十」のようになっています。これは、当用漢字の「賊」のつくりに合わせたデザインです。
 漢和辞典で「賊」をひくと、旧字体として  または  が掲げられており、つくりの左下がまっすぐの「十」かどうかが「賊」の新旧を分けるポイントだと理解できます。これを「戎」に機械的に当てはめて左下をまっすぐの「十」にしたのが、書体帳の掲げる形です。
 ただ、「賊」の場合は「十」が文字の中央にあり、まっすぐの「十」にすることで納まりがよくなりますが、へんのつかない「戎」だと左端にくるためいまひとつバランスがよくない気もします。社内でも「この形だとえびすに見えない」という声がありました。
 ともあれ、2007年1月の字体変更以降は、にしています。

  は中国人の姓などで時々登場する字。「蔵」の旧字体である「藏」からくさかんむりを外すとこの字になりますが、「蔵」の新字体にならって に略すことはしませんでした。ただ、たいていの活字が のような形であるのに対し、書体帳では左側の部分が妙に記号的な、単純化されたデザインです。なぜこうした設計をしていたのだろうと思って戦時中の紙面を見てみると(「臧式毅」という、当時の満州国の要人がしばしば記事に登場していました)、本文用の活字はこの書体帳の字に似た形でした。かつて本文用の小さな活字は、物理的な制約から、曲線が直線になるなど設計がやや単純化されるケースがあり、これもそのひとつと思われます。とすると、戦後、「臧」の活字デザインを決める際に、かつての本文用活字をもとに字体を決めてしまったということかもしれません。
 現在の朝日新聞では、一般的な にしています。

  は「殺戮」のリクの朝日字体。左上の「羽」が当用漢字にあわせて新字体になっています。現在は康熙字典体の です。あまり頻繁に見たくはない字ですが。

 次の「戸」の表外字の列にある は、いずれも康熙字典体では「戸」の上の横棒が左払いになった。このうち「扉」は1981年に新字体で常用漢字に入りました。また「肇」は1951年に康熙字典体で人名用漢字に入っていましたが、81年の人名用漢字改正で新字体に改められました。
 残りの「扁」と「扈」は、漢和辞典では今も康熙字典体が標準とされ、うち「扁」は表外漢字字体表で康熙体が印刷標準字体として掲げられました。しかし同字体表では「戸」の新旧をデザイン差としていることから、朝日新聞では表外字に含まれる「戸」は今も新字体、つまり「横棒」の形を使い続けています。

 「のぶん」では、 が略字になっています。いずれも左上の点々が下に閉じた向きになっているほか、後者は「鼈」の下半分の「黽」が に略されています。この略字パターンについては、「繩→縄」のところであらためて述べたいと思います。

 

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 22ページにいきます。

 「方(ほうへん)」の表外字のところにある は、大漢和辞典では右下の点々がにすいのようになった が掲げられていますが、康熙字典や当用漢字以前の活字は書体帳と同じ字体であり、ほとんどの漢和辞典は「旧字体」を掲げていません。1990年にこの形で人名用漢字に入っています。

 「日(にちへん)」は、部首としての「日」と「曰=いわく」を区別せずにまとめています。

 そのイワクですが、書体帳では  というふうに、内側の横棒が右側の縦画にぶつかっています。活字では、そこが少し離れた の形がふつうなのですが、この時点では当用漢字の「日」(ニチ)と同じように「接する形」を選択したわけです。
 辞書によっては「日」(ニチ)についても「横棒が離れた形」が本来であるとしていますが、実際の活字は当用漢字以前から「ニチは接する形、イワクは離れた形」というのが一般的で、それが「ニチかイワクか」を見分ける手がかりになっていました。しかし書体帳ではどちらも「接する形」にしたため、「平べったいかどうか」以外に字形上の差がなくなってしまいました。
 現在は朝日新聞でも横棒が離れた にしています。

  は、多くの人がこの形を見慣れていると思いますが、康熙字典体は「晉」。ただし康熙字典にも略字体として「晋」が掲げられており、当用漢字以前から「晋」の活字が普通に使われていました。1951年には「晋」の字体で人名用漢字に入り、それ以降この字体が標準と扱われています。

  は康熙字典体の「曾」を当用漢字の「増」や「憎」などと同様に略した朝日字体です。表外漢字字体表では「曾」を印刷標準字体とし、「曽」は簡易慣用字体とされましたが、朝日新聞では一般の慣用も考慮して紙面では引き続き「曽」を使うことを原則としていたところ、2010年の改定常用漢字表で「曽」が常用漢字入りし、正式にこれが標準字体となりました。

  は「曠」に当用漢字の「廣→広」をあてはめた朝日字体。現在は「曠」を使うことにしています。

  は康熙字典体だとですが、当用漢字の「毎」の新字体に合わせて「母」を「毋」にしたものです。現在は康熙体を使います。

  は、つくりの署が点つきの が康熙字典体。書体帳の形は「署」の新字体にそろえたものです。1990年に書体帳と同じ「点なし」で人名用漢字に入ったため、それ以降は一般にもこの字体が標準となりました。

 

■小さな違いは気にせず統合

 

 「月へん」です。いわゆる「にくづき」などもここに入っています。

  はチュウという字ですが、なかなかややこしい事情をかかえています。
 辞書的には「甲冑(かっちゅう=よろいかぶと)」のチュウと、「胄子(ちゅうし=跡継ぎの子)」のチュウとがあり、下の「月」のような部分の内側の横棒2本が左右の縦画と「離れているか、接しているか」で区別されます。JIS漢字でも両方の形が第2水準に収められ、どの情報機器でも使い分けることができます。しかしこの書体帳に見えるのは上に示した「接したチュウ」だけで、他のページを見ても「離れたチュウ」はありません。
 では、書体帳に載っているのは「跡継ぎのチュウ」だけで、「かぶとのチュウ」は収録していなかったのか。それはちょっと違います。この時点では、朝日新聞の活字では両者の字形を区別していませんでした。つまり、両方とも「接したチュウ」の活字を使う、という方針だったのです。
 実際、「接したチュウ」をかぶとの意味で使っている例が戦後の紙面にいくつも見られますし、新聞用フォントで製作された「朝日新聞の漢字用語辞典」の旧版(1986年発行)も両方の意味で「接したチュウ」を使っており、字形上の区別がありません。

 
1979年9月26日付朝刊。見出し・本文とも、左右に接した形の「胄」を「かぶと」として使っている
 

 「そんなの単なる間違いだろう」と言われるかもしれませんが、両者の字形を区別しないというのは朝日新聞に限ったことではなく、かつて、大手写植メーカーの文字盤でも「接した胄」しか無かった例があるそうです。そのためにJIS漢字の1978年版ははじめ、二つのチュウがどちらも「接した胄」で刷られてしまい、第4刷でようやく片方を「離れた冑」に直しました。
 手書きではほとんど区別できず、意味が違うといっても熟語や文脈をみれば誤解の心配はまずない。字形を区別するといっても、小さなサイズでは見分けるのも難しい。そんな二つの漢字を、どうするか。
 だったら、辞書の世界はともかく、ふつうの印刷物では活字の形をわざわざ分けなくてもいい。そういう判断があっても、さほど不思議ではないと思います。当用漢字の「冒」が旧字体の からこの字体になったことも、「冑も、左右に接する形にしてかまわない」との判断につながったのかもしれません。
 先に取り上げた「戍・戌」との違いとしては、「二つの似た字の読み(字音)が全く同じ」という点が挙げられます。ちなみにこの二つのチュウは、現代中国語でも全く同じ発音「zhòu」で、漢字はどちらも「接した形」が使われています。
 その後朝日新聞では1991年ごろ、「離れた冑」も新聞製作システムに追加されました。記者用ワープロが導入され、JIS漢字と自社システムの文字との対応を整備する過程での出来事でした。当時、用語担当者がどのように検討したのか定かではありませんが、それ以降はJIS漢字と同様、「かぶとのチュウ→離れた形」「跡継ぎのチュウ→接した形」という使い分けをすることになったのでした。

  は、当用漢字以前の活字は月の中の横棒が点々のでしたが、1951年に書体帳と同じ「月ふたつ」で人名用漢字に入っており、それ以降この形が標準と扱われています。

  は、「脛」のつくりを当用漢字の「徑→径」「經→経」などに合わせて略した朝日字体。現在は「脛」の形です。

  は、本来は当用漢字であり、康熙字典体のでなく新字体が採用されました。書体帳で表外字のところにあるのは、この字が1954年の「当用漢字補正資料」で削除28字に入っており、新聞ではそれを先行実施したためです。

  は「膾」(なます)に当用漢字の「會→会」を適用した朝日字体。この字は、書体帳の最初の版(初版A)ではまだつくりを「会」に略してはいませんでした。では康熙字典体だったかというとそれとも違い、 という形でした。つくりが「會」の手書き字形のひとつになっています。新字体の「会」にしたのは二つ目の版(初版B)以降でした。
 シリーズ8回目に登場した「老獪」のカイも、に略したのは初版Bからでしたが、こちらは初版Aではまっとうな康熙字典体のでした。へんが違うだけでなぜこうしたズレが生じたのかは、よくわかりません。

  はそれぞれ「臍」「臘」の朝日字体で、前者は「濟→済」、後者は「獵→猟」の略字パターンをあてはめたものです。現在はいずれも康熙字典体にしています。

  は「脾臓」のヒ。当用漢字の「卑」に合わせて画数が1画増えています。現在は1画少ない康熙字典体の

  は、康熙字典では穴かんむりのデザインが「宀+漢数字の八」のという形でした。康熙字典ではなぜか「空」の字形がほかの穴かんむりと異なり「宀+漢数字の八」なのです。しかし当用漢字で「空」や「控」がほかの穴かんむりと同じ「宀+儿」になり、書体帳では「腔」もそれにならいました。2000年の表外漢字字体表でも、この「宀+儿」型の「腔」が印刷標準字体として掲げられています。

  はしんにょうの点を一つにした朝日字体。現在は2点にしています。

  (ハク=うでの意)はつくりが「博」の旧字体と同じですので、「博」の新字体と同じように「甫」の下の部分が出ない形にしても不思議ではなかったのですが、康熙字典体そのままです。しかし、途中の版では変遷がありました。
 まず、書体帳の初版Aではやや不格好ながら康熙字典体。ところが初版Bと第2版では、つくりが「博」と同じではなく、右上の点まで削った になっていました。これではつくりが「専門」の専(旧字体は專)になってしまいます。康熙字典や漢和辞典にはつくりが「專」の(セン)という字もあるのですが、略字にして常備しておくべき字とは考えづらく、当時の作業にやや混乱があったのかもしれません。結局、第3版では「膊」(ハク)の康熙字典体に戻ったのでした。

  (にかわ)は右上の羽を新字体にしたもの。現在は康熙字典体のです。

  は、康熙字典体のまま。「瀧→滝」にならってつくりを「竜」に略すことはしませんでした。

(つづく)

(比留間直和)