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観字紀行

なみだの橋を渡って(1)

薬師 知美

泪橋からあしたの栄光めざして

拡大泪橋の近くにある商店街には、矢吹丈がいます
 「なみだばし」。いわくありげな橋の名を聞いて、小さな橋のたもとの掘っ立て小屋を思い出した方は、今から45年ほど前に大ヒットしたマンガ「あしたのジョー」に夢中になった世代ではないでしょうか。


拡大今回訪ねた場所
 物語は、東京の片隅にあるドヤ街に少年矢吹丈がふらりと現れるところから始まります。少年院帰りの丈は、「泪(なみだ)橋」の下に師匠の丹下段平が構えた小さなジムで、ライバル打倒をめざしてボクサーの道を歩み始めます。


 この泪橋は実際に東京に存在しましたが、町並みは「ジョー」の時代から様変わりしています。一度聞いたら忘れられない橋の名は、江戸時代に由来があります。さらに、同じ由来を持つ「なみだ橋」が他の土地にもあって、それぞれに興味深い歴史がありそうです。今回の「観字紀行」は、各地のなみだ橋を訪ねます。


泪橋に橋はなく

拡大南千住駅の南にある隅田川貨物駅
 初回は「ジョー」の町を歩きます。東京都の北東部、台東区と荒川区の境に「泪橋」という交差点があります。JR常磐線、東京メトロ日比谷線、さらにつくばエクスプレスが集まる南千住駅から徒歩5分ほど。付近には真新しい高層マンションやコンビニが立つ、都心に近いターミナル駅らしい風景です。


拡大泪橋交差点
 「泪橋」と言っても、あるのは交差点の標識だけで、橋も川も見当たりません。かつてここには「思川(おもいがわ)」という川が流れ、そこにかかっていたのが泪橋でしたが、現在は水路を地下に埋めたり覆いをしたりして見えなくする暗渠(あんきょ)になっています。丈と段平は泪橋の向こうに渡って世間を見返してやろうと誓います(ただし、1968~73年の連載当時、すでに橋は無くなっていたようです)。


拡大ジョーの永遠のライバル、力石徹の姿も
 泪橋交差点の南にある商店街「いろは会ショップメイト」は、「あしたのジョーのふるさと」を売り文句にしていて、「ジョー」の登場人物が商店街のあちこちに立っていました。


 泪橋が登場する作品は「ジョー」だけではありません。実は筆者が泪橋を知ったのは、「ジョー」ではなく宮部みゆきさんのミステリー小説「火車」(1992年)でした。借金を背負った父親が、滞在する泪橋から娘に電話してくる場面があり、それを聞いた娘が「すごく悲しくなった」と思い出すのです。

 1964年の東京五輪の頃、山谷地区には1万6千人の日雇い労働者が暮らしたといわれますが、長い不況や労働者の高齢化で現在は減っています。山谷という行政上の住所表示はすでになく、60年代に暴動の舞台となった交番も移転して新しくなりました。

拡大泪橋ホテル
 南千住駅前や交差点に立つ地図板を見るとホテルの表記が多く、見回すと「個室3帖」「冷暖房、カラーテレビ完備」と看板を掲げた宿泊所があちこちにあります。近年、バックパッカーの若者や外国人旅行者が労働者向けのこうした低額宿泊所をよく利用しているそうです。実際、私が訪ねた7月の平日午後も、大きなリュックを背負った人と何人もすれ違いました。


今生の別れを告げる泪橋

 「泪橋」という名前は、江戸時代、南千住駅の辺りに「小塚原(こづかっぱら)刑場」という処刑場があったことに由来します。罪人が牢を出て刑場へ連れて行かれる際にこの橋を渡り、駆けつけた家族がひっそりと涙しながら最後の別れを惜しんだと言われています。

 小塚原刑場は明治に入って廃止されました。跡地は今、どうなっているのでしょう。

拡大小塚原の首切り地蔵
 南千住駅前の歩道橋と常磐線の線路の間に、延命寺というお寺がありました。南北と頭上を線路に囲まれた狭い敷地ですが、足を踏み入れると4メートルほどのお地蔵様が目に飛び込みました。「小塚原の首切り地蔵」です。そばには「南無妙法蓮華経」と、独特の字体で彫られた大きな供養塔が立っています。


拡大供養塔の後ろを常磐線の電車が走り抜ける
 二十数個の花崗岩(かこうがん)からなるこの地蔵尊は、1741(寛保元)年に無縁供養のために建てられました。当時の小塚原刑場は、約100メートル×54メートルの広さがあったそうですが、廃止後は、後述する回向院の境内や墓地、宅地などになっていきました。さらに1896(明治29)年に貨物専用の日本鉄道隅田川線が開業するにあたり、線路の予定地にあった地蔵尊も今の場所に移されたということです。


拡大震災で首切り地蔵尊は大きく傷つきました

拡大1938年5月4日付の朝日新聞には、軍帽とたすきをつけさせられたお地蔵さまの写真が大きく載りました
 こうして見ている間にも、地蔵尊の背後を常磐線の列車が行き交い、頭上では日比谷線の列車が車輪をきしませています。電車の轟音(ごうおん)や雨風にさらされながら、この地を見守ってきたのですね。戦時中には戦意高揚のたすきをかけられ「軍国お地蔵さま」となった写真が朝日新聞に載りました。また、2011年の東日本大震災では激しい揺れに見舞われ、地蔵尊の石がずれ、左腕は取れてしまいました。今は修復を終えて平穏を取り戻しています。


「解体新書」はここから生まれた

拡大回向院にある、鼠小僧次郎吉の墓
 常磐線の北側には「小塚原回向院」があります。回向院の墓地には見学できる区画があり、そこには安政の大獄で刑死した吉田松陰(1830~59)ら幕末の志士の墓があります。明治時代に強盗殺人罪で処刑され、後に小説や映画になった高橋お伝(1850~79)や、盗賊鼠小僧(ねずみこぞう)次郎吉(1795?~1832)の墓もあります。次郎吉の墓は近年、受験生に人気だとか。屋敷に「するりと入り込み」、屋根から「落ちない」という言い伝えにあやかってのことだそうです。


拡大解体新書を記念した観臓記念碑

 墓地の手前の壁にはレリーフが埋め込まれています。江戸時代の医学書「解体新書」を記念した「観臓記念碑」です。小塚原刑場では、処刑された人間の体を使って、腑(ふ)分けと呼ばれる解剖が行われました。これは当時の医学者にとって、実際に体の内部を知ることが出来る貴重な機会でした。1771(明和8)年、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の3人がこの場所で腑分けに参加しました。杉田らは入手したばかりの蘭学書「ターヘル・アナトミア」を手に見学し、本に描かれた人体の構造がとても正確であることに驚きました。すぐさまこの蘭学書の翻訳を決意し、「解体新書」が誕生することになりました。


白骨が次々に

拡大工事現場から人骨が見つかったことを伝える、1998年10月31日付の朝日新聞の記事
 小塚原刑場に埋葬された死者は20万人に上るとされます。戦後は周辺が急速に開発されましたが、工事で地面を掘り返すとたびたび人骨が見つかりました。1998年にも鉄道建設工事で105体分が見つかり、朝日新聞に記事が掲載されました。

拡大コツ通りは地元商店会の名前にもなっています
 そのせいか、回向院が面している「コツ通り」という道は「骨(こつ)」に由来するとも言われます。本当は「小塚原」から取ったようですが、刑場という歴史から、それを由来とする説明が絶えないのでしょう。


 江戸の外れの原っぱから処刑場へ、さらに高度経済成長を支えた労働者の町を経て、なお新しい姿へと変貌(へんぼう)していく泪橋。珍しい名前と特異な歴史は、これからも多くの人を招き寄せることでしょう。

 次回は、東京にあるもう一つの「なみだばし」を訪ねます。
(次回はお盆休みをはさみ、8月22日に更新します)

(薬師知美)