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観字紀行

なみだの橋を渡って(2)

薬師 知美

 「なみだ橋」を巡る旅の第2回は、東京都品川区の鈴ケ森を訪ねます。前回の小塚原(こづかっぱら)と並ぶ江戸時代のお仕置き場(刑場)にも、やはり「なみだ橋」がありました。

北の小塚原、南の鈴ケ森

拡大今回訪ねた場所
 小塚原が江戸の北、日光街道沿いだったのに対し、この鈴ケ森は南の東海道沿いにあります。江戸の2大刑場は当初、浅草と芝の2カ所でしたが、開府から時間が経って人口が増えると、町外れだった刑場近くに人々が住むようになりました。そのため、さらに外側の小塚原と鈴ケ森に移設されたのです。


 鈴ケ森の最寄り駅は京浜急行電鉄の大森海岸駅ですが、橋に近い隣の立会川(たちあいがわ)駅から向かいます。品川から立会川まで普通電車で約10分。JRだと品川から大森までは2駅ですが、京急はほぼ同じ距離の品川から大森海岸まで6駅もあり、ホームから隣の駅が見えるほどです。

龍馬ゆかりの地

拡大若き日の龍馬像

 駅を出て左手の商店街を歩き出すと、目に入るのは坂本龍馬の銅像です。「立会川 二十歳の龍馬像」と書かれた案内板によると、アメリカの黒船が来航した嘉永6(1853)年、龍馬は立会川河口付近にあった土佐藩の下屋敷で警護に当たりました。有名な高知・桂浜の龍馬像が洋装を取り入れたブーツばきなのに対し、ここの龍馬がわらじばきなのは、より若い龍馬を表しているようです。


拡大龍馬が警護に当たった、浜川砲台の跡
 立会川の河口には、龍馬が警護した浜川砲台の跡があります。今ではいくつもの人工島があり、龍馬が眺めた海は運河にしか見えません。


拡大商店街のマスコット、りょうくん
 商店街の両脇には、龍馬にちなんだ馬のキャラクターの旗が並んでいます。馬といえば、この町には馬に関わるものがもう一つ。大井競馬場です。「東京シティ競馬」として、仕事帰りの客に人気の夜間レースや女性ファン向けのイベントを開くなど、話題の豊富な地方競馬場です。


旧東海道の涙橋

拡大かつて多くの旅人が行き交った東海道は、静かな裏道になっています
 商店街を抜けると、南北に延びる静かな道に出ました。旧東海道です。南へ向かうと、すぐに小さな川と橋がありました。立会川に架かる浜川橋、別名を「涙橋」といいます。南千住の泪橋では橋と川は見る影もありませんでしたが、こちらは残っています。


拡大立会川にかかる涙橋
 橋のそばに立て札があります。「立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を『涙橋』ともいいます」。橋が架けられたのは1600年ごろ、この先の鈴ケ森に刑場ができたのは慶安4(1651)年です。処刑される罪人は、江戸の牢屋敷(訪ねた様子はこちら)から刑場まで護送され、ひそかに見送りにきた家族がこの橋で涙ながらに別れた、という由来は南千住の泪橋と同じですね。


 ちなみに現在の橋は、昭和9(1934)年に架け替えられたもの。両端の親柱には飾り照明がついていて、レトロな雰囲気です。周りにはマンションや商店が立ち並び、歩行者や自転車がひっきりなしに通っていて、明るい雰囲気です。

緑陰の刑場跡

拡大鈴ケ森刑場跡
 旧東海道をさらに南へ進むと、鈴ケ森中学校の先に刑場跡が見えてきました。白くモダンな大経寺の境内に、背の高い木々が生い茂る一角があり、小塚原で見たのとよく似た「ひげ文字」の供養塔があります。旧東海道と国道15号にはさまれた狭い三角地で、道路工事で敷地が削られていったことが一目瞭然です。残されたこの大経寺の境内に、多くの供養塔がぎゅっと集められている印象です。


拡大はりつけ用(左)と火あぶり用(右)の台石
 供養塔のそばの木の下には、直径30センチほどの円盤形の石が二つ並び、片方には丸い穴、もう一方には四角い穴が開いています。丸い穴には火あぶりで使う鉄柱、四角い穴には磔(はりつけ)で使う角柱を立てました。


八百屋お七はここで火刑に

拡大刑場跡に立つ、ひげ文字の供養塔
 火あぶりと言えば、八百屋お七の話が頭に浮かびます。お七は江戸本郷の八百屋の娘。大火で焼け出され、逃れた先の寺の小姓と恋仲になりますが、やがて家に戻る日が来ます。再び火事になってこの寺に避難すれば彼に会えるのではと、放火の罪を犯し、火刑に処せられました。この石に立てられた鉄柱で、八百屋お七は生きたまま火あぶりにされた――。木々の根元は薄暗く、静けさの中で暑さを忘れそうになります。


拡大馬頭観音の名を刻んだ、馬の供養塔
 境内には、罪人の首をさらす前に洗ったという「首洗いの井戸」など背筋の寒くなるものの他、馬の供養塔や鯉塚などもあります。人以外の存在も供養する場所だったのですね。


冤罪で処刑された人も

 お寺で販売されていた冊子には、こんな話もありました。
 厳然たる身分制度があった江戸時代、絶対的存在であるお上が事件を解決できないことなどあってはなりません。迷宮入りしそうな時は、無実の人を犯人に仕立てることがあったそうです。真っ先に対象になるのは、決まった家を持たない人々でした。

拡大刑場跡には木が生い茂っています
 一説では、無実の罪で処刑された者が全体の4割ほどといいます。時代劇で拷問を受ける場面がありますが、水責めにされたり棒で打たれたりしながら無実を訴え続けるのは不可能でしょう。刑を受ける前に拷問で死んでしまいます。現代ですら冤罪(えんざい)が発生するのに、時代劇のような正義の味方もいない当時、いったん犯人視されれば逃れるすべはなかったことでしょう。


 人々は、自分に疑いが及ぶのを恐れ、家族から捕らわれ人が出た場合は、すぐに絶縁することで一族郎党に影響が及ぶことを避けたかもしれません。一方、中には、さらなる刑死者を出さないために、他の罪までかぶる「義賊」と呼ばれる人もいたそうです。おかげで難を逃れた民衆は、名も知らぬ死者に手を合わせ、後々まで供養を続けたといいます。

 こうした話を知って、小塚原と鈴ケ森の印象がずいぶん変わりました。大事件を起こした重罪人が、大衆の前で残酷に処刑された場所だといって恐れ嫌ったり、あるいは「心霊スポット」などと面白がったりするような場所ではないようです。死出の旅へと赴く罪人を「なみだ橋」で見送った家族、後々まで供養を続けた近所の人、さらに処刑された人、そのほとんどは今の私たちと変わらない普通の人々だったのでしょう。そんなことを考えたひとときでした。

 次回は鹿児島市にある涙橋を訪ねます。そこには「涙橋」という路面電車の停留所があるとか。果たしてどんな物語と出会えるのでしょうか。

(薬師知美)