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観字紀行

なみだの橋を渡って(3)

薬師 知美

南国の涙橋を訪ねて

拡大色とりどりの鹿児島市電の車両
 「なみだ橋」を訪ねる旅の3回目は、南国の鹿児島市です。


拡大今回訪ねた場所
 これまで紹介した東京の二つの「なみだ橋」は、どちらも江戸の処刑場に続く道中にあって、刑場に護送される受刑者を家族が泣く泣く見送ったのが由来でした。ならば、他の土地でも刑場の近くにあった橋を「なみだ橋」と言うのではないでしょうか。試しに鉄道の駅名を調べてみると、鹿児島市の市電の停留所に「涙橋」がありました。停留所の名前になるとは、いったいどんな橋なのでしょうか。現地へ向かいました。


若者がもたらした維新の原動力

拡大鹿児島中央駅前に立つ「若き薩摩の群像」
 JRと市電のターミナルとなっている鹿児島中央駅の駅前に降り立つと、屋上に観覧車のある駅ビルが迎えてくれました。が、それ以上に目を引くのが、総勢17人の「若き薩摩の群像」です。東京・柴又駅前の寅さんや岡山駅前の桃太郎など、駅前の銅像はいくつか見たことがありますが、こんなに大勢の群像は初めてです。


 1862年、生麦村(現在の横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列に遭遇した英国人が無礼打ちされる「生麦事件」が起きます。これをきっかけに、翌1863年に薩英戦争が勃発します。この戦いで西洋技術の先進性を痛感した薩摩藩は、2年後に若者たちをロンドンへ派遣しました。幕府はまだ海外留学を禁じていたため、70キロほど西に浮かぶ甑島(こしきじま)への出張と偽り、名前も変えて出発しました。日本の近代化において薩摩藩と藩出身者が大役を果たした背景には、若者たちが欧州を直接見聞して得た情報がありました。それを地元の人たちが今も誇りにしていることが、ひしひしと感じられました。


 薩摩の歴史に興味も湧きますが、さっそく涙橋に向かいます。

エコな市電は軌道もエコだった

拡大軌道敷が鮮やかな芝生になっています
 鹿児島市電の乗り場へ行くと、車道に挟まれた軌道敷が芝生になっています。ヒートアイランド現象の緩和や騒音の軽減を目的に、2007年から導入されたもので、本格的に芝生にしているのは全国でも鹿児島だけだそうです。目に鮮やかな緑のじゅうたんの上を、色とりどりの電車がトコトコ走っているのが、なんとものどかです。


拡大涙橋の全景
 長さ15メートルほどの涙橋は、市街地の南にある涙橋電停を降りるとすぐでした。市電が走る県道と並行する旧谷山街道が、新川を渡るところに架かっています。刑場は鹿児島城下からこの道を通って涙橋のさらに南にあったはずですが、目の前の橋は1997年に架け替えられたもので、昔の面影はありません。川岸はコンクリートで固められ、はるか下を静かに水が流れています。往時の手がかりを探すと、橋のたもとのマンション前に大きな石碑がありました。


激戦三たび

拡大涙橋血戦の碑
 「涙橋血戦の碑」。説明板には、涙橋は江戸時代にこの先にあった刑場へと向かう罪人と、その家族がこの橋のたもとで最後の別れをしたのが由来とあります。が、この碑そのものは、明治時代にこの場所が西南戦争の戦場であったことを伝え、ここで戦死した薩摩軍の兵士を供養するために建てられたものでした。


 1877(明治10)年、西郷隆盛が新政府への不満を強めていた士族を率い、日本最後の内戦である西南戦争を起こします。官軍との戦いは熊本、大分、宮崎をたどって最後は鹿児島に移ります。


拡大城山のふもとに立つ西郷隆盛像
 西郷の率いる薩摩軍の一部がたどり着いたとき、鹿児島のほとんどは官軍に占領されていました。薩摩軍は涙橋の近くの高地に陣を構えて官軍と交戦。旧式の兵器や少ない弾薬しかない薩摩軍は、6時間に及ぶ戦闘で多くの死者を出し、紫原(むらさきばる)方面に退却したということです。


 紫原は、涙橋から見上げる丘陵地の上にあります。薩摩藩の刑場もこの上にありましたが、今は一帯が住宅地となっていることもあり、お寺が残る江戸の刑場跡とは違ってはっきりと場所を示すものは残っていません。

 そこで、薩摩藩の近世・近代に詳しく、大河ドラマ「篤姫」などの時代考証も担当した志学館大学の原口泉教授(日本近世・近代史)にお話を聞きました。

 原口教授によると、鹿児島の涙橋もやはり、刑場へ連れて行かれる人と家族が別れたことが名前の由来だそうです。
 それとは別に、この涙橋付近は薩摩の歴史に何度も登場した場所でした。南北朝時代、戦国時代、そして前述した西南戦争と3回大きな戦いがあり、多くの血が流れた場所だったそうです。
 さらに「江戸時代の薩摩には、刑場で処刑が行われると、青年武士たちが刑死者の遺体から内臓を取ってくるという風習がありました。『ひえもんとり』と呼ばれるもので、肝試しといいますか、若者たちが武勇を競うものだったのです。里見弴(さとみとん)の短編小説にもなっています」と教えてくださいました。

 刑場に由来することは予想どおりでしたが、薩摩の風習とのかかわりもあって、涙橋は人々によく知られた橋だったようです。市電の停留所の名前に残った理由はここにありそうですね。

 現地では、涙橋の歴史を感じさせるものは見つけられませんでしたが、罪人とその家族が流した涙が由来だったとしても、別の時代には、ここで戦って命を落とした人をしのんで涙を落とす人々もいただろうと、市電や車が行き交う交差点で想像しました。

灰との闘い

拡大桜島の灰が入った克灰袋
 さらに歩き回っていると、鹿児島ならではの光景をあちこちに見つけました。ゴミ集積所の隣にある「灰置き場」です。桜島の火山灰が入った黄色のレジ袋のような「克灰袋(こくはいぶくろ)」も。以前は「降灰袋」でしたが、1991年に「受け身的な印象を感じさせる『降灰袋』から、降灰に強い都市を目指し、積極的に降灰を克服しようという意欲」を示すために、こんな名前に変更したそうです。

拡大城山から見た桜島
 筆者の滞在中、桜島には雲がかかって全体は見えずじまいだったうえ、噴煙が見えたり灰が降ったりすることもなく、その大変さの一端すら実感できませんでしたが、日本で最も活発な火山の下で暮らす人たちにとって、降灰は何としても克服したいものでしょう。


維新の名残があちこちに

拡大西郷隆盛像の向かいに立つ小松帯刀像
 鹿児島の中心市街には、明治維新で活躍した西郷隆盛や大久保利通のほか、西洋の技術をとりいれて薩摩藩の近代化を進めた藩主島津斉彬(なりあきら)の銅像があり、彼らが今も市民に敬われていることがよく分かります。大河ドラマになった篤姫や小松帯刀の銅像もあります。


拡大仙巌園の庭
 鹿児島市で一番の繁華街「天文館」が、1780年ごろに天文観測や研究のために建てられた「明時館」の別名に由来するというのも、進取の気風あふれる薩摩らしくて面白いのですが、大名庭園にも「らしさ」があふれていました。市街を北に抜け、藩主の別邸として造られた「仙巌園」を訪れると、中国の風水に基づく庭や琉球の建物があります。さらに、大名庭園には築山と池がつきものですが、ここは桜島と錦江湾をそれらに見立てています。雄大な風景を見た当時の人々はどんな大きなことを考えていたのでしょう。筆者も大きな気持ちになってきました。


拡大仙巌園から見た桜島。やはり雲がかかっています
 この錦江湾では大正時代から毎年夏、桜島のふもとと仙巌園近くの磯海水浴場の間の約4キロを小学生が泳いで渡りきる「横断遠泳」が行われています。雄大な桜島に見守られながら頑張った子どもたちには、ひと夏ごとに自信がつきそうですね。鹿児島の小学生がうらやましくなりました。


 次回は福島県会津若松市に残る「涙橋」を訪ねます。

(薬師知美)