メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

文字

観字紀行

なみだの橋を渡って(4)

薬師 知美

会津若松に涙橋を訪ねて

拡大鶴ケ城
 各地に残る「なみだ橋」を訪ねる旅の最終回は、福島県会津若松市に行きました。市内にある「柳橋」という橋の別名が「涙橋」だそうです。現在まで名前が残るからには、前回の鹿児島のように何か特別な理由があるのかもしれません。

拡大今回訪ねた場所
 東京から東北新幹線で郡山へ、さらに磐越西線で猪苗代湖のそばを通り抜けて計3時間ほどで会津若松駅に着きました。


拡大会津若松駅前に立つ、白虎隊士像
 駅を出ると、白壁の駅舎の前に白虎隊の少年たちの像が立っています。会津若松といえば、言わずとしれた会津戊辰戦争の激戦地。昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」をご覧になった方も多いでしょう。明治維新の1868(慶応4・明治元)年、薩摩・長州の両藩を中心とする新政府軍が、鳥羽・伏見の戦い、江戸開城を経て東北に進軍。旧幕府側の会津藩は、鶴ケ城で1カ月に及ぶ籠城(ろうじょう)戦の末に降伏しました。
 街なかにはあちこちに「八重の桜」のポスターや戊辰戦争関連の紹介がありますが、さっそくレンタサイクルで涙橋へ向かいます。


涙橋は柳が目印

拡大柳橋(涙橋)の全景
 会津若松駅の隣、只見線の七日町(なぬかまち)駅前を通って国道252号を自転車で15分ほど走ると、大きな柳の木が立つ三差路が見えてきました。そこにかかるのが柳橋です。


 橋は15メートルほどと短いのですが、中心街に出入りする車がひっきりなしに通ります。橋がかかる湯川(ゆがわ)は、水中に草がたっぷり生えていて、5、6羽の鴨がゆったり泳いでいました。

拡大涙橋のたもとに立つ柳の木
 橋の銘板は「柳橋」ですが、そばに「涙橋」の解説板があります。「柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称された」とのこと。「涙橋」についても「柳橋の二百米程下流の薬師川原には藩政時代の処刑場があり」「この場所には休み小屋があって刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族と水盃を交して別れを惜んだところから通称涙橋と呼ばれ昭和初めの木橋には涙橋とも記されてあった」と、詳しく解説されています。


 さらに、この場所にまつわる二つの出来事も書かれています。近くの刑場ではキリシタン弾圧に伴い外国人宣教師を含む60余人が一度に処刑されたこと、そして戊辰戦争で女性たちの娘子(じょうし)軍の隊長・中野竹子がこの地で敵弾に倒れたことです。

 それぞれ今に残るものがあるというので、探してみました。

刑場は草むらに消えて

拡大かつて刑場があったと思われる河原は、草が生い茂っていました
 まず気になったのは、刑場があったという「薬師川原」。事前に調べた際には「薬師堂河原」という名前も散見されたので、お堂があると思ったのですが、河原は背の高い草に覆われていてそれらしきものは見つかりません。近くで畑作業をしていた男性に聞いてみましたが、「さあ、今はもうないのでは」とのことでした。


拡大弾圧の歴史を今に伝えるキリシタン塚
 一方、「キリシタン塚」はすぐに見つかりました。国道から入った細い道のそばに、小さく囲われた場所があり、花が供えられています。


 キリシタンといえば長崎や熊本というイメージが強かったのですが、会津では織田信長、豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名の蒲生氏郷(がもううじさと、1556~1595)が治めた時期があり、領民の3分の1が入信したとも言われています。しかし江戸幕府がキリスト教を厳しく禁じると、会津でも弾圧の殉教者が出ました。この涙橋付近の河原では、1635(寛永12)年に会津キリシタンの中心的存在だった横沢丹波と外国人宣教師ら60余人が火刑や斬首、はりつけにされたそうです。この前後にも弾圧があり、その話は地元で言い伝えられました。戦後の道路工事の際、この場所で人骨が見つかり、1962(昭和37)年に供養のため塚がつくられたということです。

会津のキリシタン

拡大蒲生氏郷を紹介する、レオ氏郷南蛮館
 それを知って改めて街なかを自転車で走ると、氏郷の洗礼名を掲げた資料館「レオ氏郷南蛮館」や教会が目につきます。戊辰戦争や会津武士とはちょっと違った会津若松のことが知りたくなり、市中心部にある日本基督教団若松栄町教会にお邪魔しました。


拡大若松栄町教会
 若松栄町教会は、細菌学者の野口英世(1876~1928)が1895(明治28)年に18歳で洗礼を受けた教会が、戦後にこの場所へ移転したものです。ちなみに、同じ日本基督教団の会津若松教会は、政府が禁教令を撤廃した後の1882(明治15)年に「八重の桜」の新島襄と妻の八重が訪れ、東北での布教の拠点としました。


 若松栄町教会の片岡輝美さんに、会津のキリシタンについて聞きました。
 「いま若松にある教会は、明治以後にそれぞれの宗派がつくったものですが、涙橋で処刑があった弾圧の後も、十字架形の瓦や、十字架をもった観音像が見つかっており、隠れキリシタンとして信仰を続けた人はいました。若松だけでなく、猪苗代町や会津坂下町、会津美里町にもそれぞれ教会があって、信者の数は町の規模から考えると比較的多い方だと思います」とのこと。
 ただ、若松栄町教会と涙橋のそばのキリシタン塚には直接のゆかりはなく、歴史上のできごとがあった場所というほどの認識だそうです。

 ちなみに、蒲生氏郷が会津を治めたのは5年足らずですが、武家や町人の住む区画を分けて城下の町並みを整えるなど、今の会津若松の基礎をつくったとされます。中心地に残る墓やあちこちに残る案内板から、今も氏郷が市民に敬愛されていることが伝わってきます。

中野竹子は何を見つめる

 続いて、戊辰戦争の中野竹子にまつわる碑も見に行ってみました。

拡大中野竹子像

 鉄砲や大砲といった近代兵器になぎなたで立ち向かった娘子軍隊長の竹子。「八重の桜」では黒木メイサさんが演じていましたね。母や妹らと共に参戦した竹子は、涙橋で城下に迫る長州・大垣(岐阜)藩の兵士と遭遇し、激しく戦いました。
 竹子は「武士の猛き心にくらぶれば 数には入らぬ我が身ながらも」という辞世の歌の短冊を長刀に結びつけて奮戦しましたが、最後は銃撃され、22歳で戦死しました。キリシタン塚から少し離れた木立の中に、竹子の像と碑があります。顔はきりりと引き締まり、鉢巻きを巻いて一点を見つめていました。


 鹿児島の涙橋は西南戦争、会津の涙橋は戊辰戦争と、どちらも戦の舞台となったことに不思議な縁を感じます。筆者はどちらの土地も初めて訪れましたが、それぞれの涙橋のそばに立ち、そう遠くはない150年ほど前、ここで新しい国のあり方をめぐる戦いがあったのだと改めて考えました。

 江戸の刑場跡も含め、歴史上の人物以外にも多くの名もなき人の血と涙が流れたことでしょう。「なみだ橋」という橋や地名には、その記憶をとどめておこうという人々の思いが込められているように感じます。

 現在も残る「なみだ橋」をめぐる旅はここまで。でも、これ以外にも、昔の刑場近くにはそう呼ばれる橋があったと考えられそうです。興味がある方は、地元の歴史を探ってみてはいかがでしょうか。町の新たな一面が見えてくるかもしれません。

(薬師知美)

=おわり