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文字

観字紀行

題字のふるさとを訪ねて(3)

山室 英恵

拡大朝日新聞の題字(東京本社版)
 朝日新聞の題字のふるさとを訪ねて、山梨県市川三郷町の大門碑林公園に来ています。前回は「朝」と「日」を見つけたので、引き続き「新」と「聞」を探したいと思います。

「新」は合成

 「新」はこの碑の中に無かったので、「親(立の下は木ではなく未)」の偏と、「柝」のつくりの「斥」の点を取り除いたものを合わせて作ったとされています。

拡大石碑右上の「親」
拡大石碑中央の「親」

 「親」があるのは石碑の右上と中央あたり。「立」と「未」の横線の間隔と、「未」の部分の4画目の形などが題字と石碑では異なっています。また、題字では「未」の部分の1画目の終筆が細く抜けていくような形ですが、石碑では均一の太さです。


 「柝」はどうでしょうか。石碑にあるのは1カ所だけ。「斥」の2画目の反りが、題字より随分きついです。他に「斥」が入っていそうな文字を探すと「坼」が見つかりましたが、この文字の「斥」も題字とはかなり違います。

拡大「新」のつくりの基になったといわれる「柝」
拡大 「斥」を含む文字である「坼」


 また、柝や坼を見ると、波磔(はたく:横画の右ハライ)があります。隷書では波磔は一つの文字に1カ所だけと言われていますが、題字の「新」には波磔のようなものが複数あります。
 どうやら「新」をデザインした際には、「親」と「柝」のパーツをそのまま切り張りしたのではなく、少し形を変えたようです。


「聞」はただ一つ

拡大唯一あった「聞」

 最後に「聞」を探します。この文字も見つかったのは1カ所。「聞」は門構えの中の「耳」の最終画が1画目と離れているところなど、元の形を生かしている部分が多そうです。


 これまで「朝」「日」「新」「聞」の4文字とも、石碑の文字がほぼそのまま使われていると思っていましたが、実際に見てみると、始筆の形や波磔の形、線の太さの変化が違うなど、原字通りではない部分が多く見られ、題字を作るときにアレンジが加えられたようです。実際に見てみないと分からないことは多いものです。
 これで、朝日新聞の題字のルーツを確かめるという、当初の目的を果たすことが出来ました。

この字形にピンときたら

拡大顔氏家廟碑。赤い柱と青緑の軒下の取り合わせがおしゃれです
 大唐宗聖観記碑のそばには他に、欧陽詢以外の初唐の三大家である虞世南(ぐ・せいなん)の孔子廟堂碑や褚遂良(ちょ・すいりょう)の雁塔聖教序碑(653年)など、7基の石碑がありました。7基のうち、大唐宗聖観記碑から一番遠い位置に置かれている顔真卿(がん・しんけい、709~785)の顔氏家廟碑(780年)をゆっくり見てみたいと思います。


拡大顔氏家廟碑にある「氷」
拡大顔氏家廟碑にある「光」
拡大顔氏家廟碑にある「道」
 この中の「氷」「光」「道」の文字を見てみましょう。矢印の部分に見覚えはありませんか。
 「中国書道史事典」(比田井南谷著・雄山閣出版)の顔真卿の項には、「(中略)従来の楷書の筆画を部分的に変形し、篆書(てんしょ)的な要素を取り入れて、多少変わった字形の書をかいた。(中略)後世になって行われた木版印刷の一つのスタイル(現在の活字の母体)は、この書風を基礎にしてつくられたと考えられている」とあります。
 確かに、印刷物の文字やパソコンのフォントには、普段鉛筆などの硬筆で書く線とは違い、顔真卿の筆跡のような形をしているものがあります。


 ところで、朝日新聞では本文の大半に明朝体を使っています。フォント部門に残る記録を読むと、朝日新聞の明朝体は、題字と同様に欧陽詢の書を参考に作られたという記述がありました。

 朝日新聞は1879年の創刊以来、東京築地活版製造所(1938年解散)製の「築地書体」など複数の活字を使っていましたが、1951(昭和26)年ごろから現在の「朝日新聞書体」が作られ始めました。朝日新聞書体をデザインした太佐源三(1897~1988)は、築地書体をモデルにし、文字のふところ(ふところについてはこちら)を広くすることで、小さな文字でも大きく見えるようデザインしました。その際、欧陽詢の書風も手本にしたそうです。

 欧陽詢は題字のみならず、朝日新聞書体の祖先だったとも言えそうです。

 次回は、行きに見送った拓本取りに挑戦します。

(山室英恵)