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朝日字体の時代 23

比留間 直和

 「枳」「梼」「沂」……昭和30年代、大阪本社だけが常備していたらしい活字の例です。それぞれ用途が思い浮かぶでしょうか。
 今回も、社内資料「統一基準漢字明朝書体帳」第3版(1960年)の巻末に掲げられた「ローカル字」をご紹介します。ローカル字とは、4本社共通で整備する対象として選んだ4000字のほかに、各本社がそれぞれの事情で活字を用意していた漢字です。

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 活版時代、手元に必要な字がなかった場合は母型を取り寄せたり、時間がなければ別々の活字のへんとつくりを組み合わせて間に合わせたりしていたといいますから、ローカル字についても「ある/なし」がそのまま「紙面に使える/使えない」ということに直結していたわけではありません。しかしローカル字の品ぞろえは地域ごとの必要性や使用実態を反映したものであり、漢和辞典的な知識におさまらない面白さがあります。

 ただし、その地域でその活字がなぜ必要だったのか容易に想像がつくものもあれば、今となってはよくわからないものもあります。また、ローカル字に選んだ具体的な理由を記した資料が残っているわけではないため、「想像」が当たっているかどうかは保証の限りではありません。そのあたりはどうかご容赦ください。

 前回は東京本社と名古屋本社(書体帳での表記は「中部」)のローカル字を眺めました。今回は大阪本社の分を見ていきます。前回掲げた表のつづきをに掲げましたのでご参照ください。「卞」や「曺」など、東京や名古屋と重複する字は省いています。

          ◇

 (以下、文字の番号は前回からの続きで、表との対照のため便宜的に振ったものです)

 18の「呰」は音読みはシで、「せめる」「そしる」「きず」といった意味の字ですが、大阪本社のローカル字に入った理由として考えられるのは、岡山県にあった「呰部町(あざえちょう)」でしょう。書体帳が作られるよりも少し前、1953年に合併で北房町になるまで上房郡にあった町です。その後さらに合併して真庭市の一部になっていますが、同市には今も「上呰部」「下呰部」の地名、そして市立「呰部小学校」があります。
 「呰」のつく地名としては他に福岡県みやこ町(旧豊津町)の「呰見(あざみ)」がありますが、こちらは自治体名でなかったためか、西部本社のローカル字には入っていませんでした。

 

 

 19の「峅」は「くら」と読む国字で、富山県の地名に使われる字として知られています。自治体名としては、1954年まで上新川郡「船峅村(ふなくらむら)」がありました。大沢野町を経て現在は富山市になっており、今も市立「船峅小学校」があります。このほか、立山町には岩峅寺(いわくらじ)、芦峅寺(あしくらじ)といった地名があり、富山地方鉄道に岩峅寺駅があります。
 朝日新聞では1989年秋から富山県域が大阪本社から東京本社に移管されましたが、2011年春からは再び大阪本社が管轄するようになっています。

 20の「垪」も国字で、かつて岡山県久米郡に「垪和村(はがそん)」、「大垪和村(おおはがそん)」がありました。前者は1953年に合併で旭町に、後者は1955年にやはり合併で中央町になり、さらなる合併で現在は共に美咲町になっています。地名だけでなく、垪和(はが)という姓も時々紙面に登場しています。

 21の「掖」は、団体名「日本海員掖済(えきさい)会」や、中国の地名「張掖」「掖河」などで出てくる字ですが、大阪本社のローカル字に入った理由は、奈良県南葛城郡にあった「掖上村(わきがみむら)」でしょう。1955年に御所町に編入され、現在は御所市になっています。今も市立「掖上小学校」やJR「掖上駅」などがあります。

 

■名所旧跡に必要な字も

 

 22の「枳」を含む名所といえば、京都の「枳殻邸(きこくてい)」です。東本願寺の別邸・渉成園の通称で、枳殻(からたち)が植えられていたことからそう呼ばれました。下の画像は、よくない出来事で申し訳ないのですが、枳殻邸の火事を伝える大阪本社夕刊の記事で、書体帳より少し前の時期のことです。このときは東京本社の紙面でも小さく記事が出ていました。

 
 23の「柞」の用途は、自治体名では香川県三豊郡にあった「柞田村(くにたむら)」。1955年に合併で観音寺市となりました。現在も市内に「柞田町」の地名があり、市立「柞田小学校」があります。
 柞田のほかにも、現存する大字レベルの地名でこの字を含むものを探してみると、滋賀県甲賀市(旧信楽町)の柞原(ほそはら)、奈良県野迫川村のこれまた柞原(ほそはら)、広島県福山市(旧芦田町)の柞磨(たるま)、香川県丸亀市の柞原町(くばらちょう)など、軒並み大阪本社の管内です。

 24の「栢」は康熙字典で「柏の俗字」とされていますが、地名や人名では主に「かや」という読みで使い分けられることの多い字です。書体帳が作られたころに存在していた町村でこの字を含むものというと、埼玉県南埼玉郡に「栢間村(かやまむら)」がありました。1954年に合併で菖蒲町となり、現在は久喜市の一部になっています。埼玉の村名にあったわけですから東京本社でローカル字に入っていないのが不思議ですが、もともと「柏」の異体なので、「柏」の字体を使えばよいという意識があったのかもしれません。
 大阪だけが「栢」をローカル字として保有していたのは、当時、管内の小地名や人名などで使う機会があったからではないかと思います。

 25の「木へんに毋」は「栂」の略字。書体帳では4000字に入った「姆」や「苺」を当用漢字の「毎」や「海」にならって「母→毋」と略しており、「栂」もこれに合わせていました。
 大阪本社管内で「栂」のつくものといえば、京都の景勝地「栂尾(とがのお)」がすぐ思い浮かびます。あの「鳥獣人物戯画」で知られる高山寺も栂尾です。東京本社管内では長野県の栂池(つがいけ)高原がありますが、東京のローカル字には入っていませんでした。
 この字はその後、1980年代に新聞製作をコンピューター化した際も「木へんに毋」という朝日字体で実装されましたが、「表外漢字字体表」が答申される直前の2000年11月、「姆」「苺」などとともに略字をやめて康熙字典体に変更しました。当用漢字が「毋」に略したのは「毎」というかたまりになっている場合であり、朝日字体として「母」という単位でいじるべきではなかった、との判断によるものです。

 26の「檪」は康熙字典体だと「櫟」。「くぬぎ」とか「いちい」と読む字です。大阪本社がローカル字として保有していたのは、奈良県添上郡にあった「櫟本町」(いちのもとちょう)のためと思われます。同町は1954年に合併で天理市になりました。櫟(檪)を含む大字レベルの地名は奈良県以外にもいくつもありますが、その分布は西日本に偏っています。
 2007年に自社の表外漢字字体を略字から康熙字典体に改めてからは、「櫟」の字体を使うことを原則としています。

 27の「木へんに巣」は「樔」の略字です。これも奈良県の吉野郡にあった「国樔村」(くずむら)のためと考えられます。1956年に合併で吉野町になりました。
 この字も2007年に康熙字典体の「樔」に改めましたが、近年は数年に1度程度しか紙面に登場する機会がありません。

 28の「梼」は、高知県「梼原町(ゆすはらちょう)」に必要な字です。愛媛県に接する同町は、坂本龍馬が脱藩する際に通った土地として知られ、最近では「龍馬脱藩マラソン大会」を開くなど龍馬とからめた町おこしに努めています。
 康熙字典体はつくりの寿が旧字体の「檮」であり、「梼」は当用漢字にならった朝日字体ということになりますが、梼原町自身が略字を使っている(正式には檮原ですが)ため、朝日新聞では現在も「梼原町」と表記しています。

 29の「檗」は、黄檗宗のバク。曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗のひとつで、京都・宇治の黄檗山万福寺が本山です。「黄檗宗」は記事に出る頻度はそれほど高いわけではないものの、大阪紙面にとどまらず全国的に登場する言葉ですから、当時大阪のローカル字にとどまっていたのはやや意外です。書体帳の少し前の1954年には、東京・日本橋の白木屋で「黄檗名宝展」を本社主催で開き、東京紙面に社告も出したりしていたのですけれど=右の画像

 30の「櫨」はハゼ(ハゼノキ)を表しますが、関西でこの字で思い浮かぶのはまず「香櫨園(こうろえん)」でしょう。兵庫県西宮市の夙川下流域、高級住宅地として知られるこの地域の名は、1907(明治40)年に香野蔵治と櫨山喜一が開発した遊園地の名に由来します(遊園地は1913〈大正2〉年に閉園)。遊園地閉園後に開通した阪神電鉄の駅名は「香枦園」と略字で書かれてきましたが、2001年からは「香櫨園」に変更されています。
 また、今の神戸市域には「櫨谷村(はせたにむら)」がありました。1947年に神戸市垂水区に編入され、のちに西区となっています。
 ローカル字一覧に掲げられている「櫨」は康熙字典体のままであり、当用漢字にならった略字の「枦」にはなっていません。地名表記という用途も加味して判断したのでしょうか。

 

■その校名を書くために

 

 31の「沂」は「中国山東省の川の名。沂水」あるいは「川岸」といった意味で、日常生活で使うことはまず無い字ですが、新聞には京都版を中心にしばしば登場しています。そのほとんどが、「京都府立鴨沂(おうき)高校」。旧制京都一女を前身とする伝統校で、1948年に鴨沂高校に改称しました。「鴨沂」は鴨川のほとりという意味で、同校の同窓会は明治時代から「京都鴨沂会」と称しています。
 「沂」はもともと山東省の川の名でもあるため、同省の地名(臨沂や沂南)で紙面に登場する機会もありますが、出現頻度でいえば鴨沂高校に遠く及びません。

 32から34はいずれも辞書的には異体字に分類されるもので、大阪のローカル字に入ったのが何を意図してのものか、筆者にはよくわからない字です。
 まず32の「渕」は「淵」の異体で、現在はほぼ当事者の意向通りに「淵」と「渕」を使い分けていますが、かつて新聞では固有名詞でも「渕」を使わず「淵」に統一することになっていました。当時大阪本社でそのルールの例外があったということでしょうか。
 33の「滙」は「匯」の異体ですが、「匯」のほうは書体帳本体の4000字に入っておらず、ローカル字を含めて書体帳にはこの「滙」しか見えません。「匯(滙)」の最大の使い道は香港と上海にある新聞「文匯報」ですが、その表記のために大阪のローカル字に入っていたとは考えにくいでしょう。
 34の字は「白の下に本」の形をしていますが、ふつうなら「皋」(白の下に夲)に作るところでしょう。「皋」は、皐月賞の「皐」の本字とされる字体で、新聞では主に人名で時々出てきますが、大阪のローカル字が具体的に何を想定していたのかはよくわかりません。

 35の「盈」は「えい」「みつ」などの読みで人名にも出てきますが、人名用漢字には入っていません。大阪管内でこの字が必要だった理由としては、広島県福山市にある「盈進高校」の校名表記が考えられます。夏の高校野球などは地方大会から詳しく報じていますから、出場校の名に含まれる字は当然必要となります。
 この字は大阪本社のほか西部本社でもローカル字として保有していましたが、その管内である九州・山口地区で「盈」の活字が必要だった有力な理由は、まだ見つけられていません。

 大阪本社のローカル字はまだあります。

(つづく)

(比留間直和)