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朝日字体の時代 24

比留間 直和

拡大p43

 「麸」や「靭」を大阪本社だけが用意していたのはなぜ? 「畩」になじみがあるのはどの地域の人?――

 昭和30年代に朝日新聞の4本社が、全国共通で整備する字とは別に、それぞれで活字を保有していた「ローカル字」。前々回は東京本社と中部(名古屋)本社のローカル字を、そして前回は大阪本社のローカル字を途中まで紹介しました。今回は大阪の残りと、西部本社です。

 社内資料「統一基準漢字明朝書体帳」第3版(1960年)の巻末にあるローカル字の一覧=左の画像=を見ると、東京と中部に比べ、大阪や西部はその倍ほどもローカル字が並んでいます。やはり管内の地名が中心ですが、細かく見ていくと、自治体レベルに限らず、紙面に必要な字をより丁寧に拾っている印象を受けます。

          ◇

 では、大阪本社のローカル字の続きを見ていきましょう。左下の表をご覧ください。番号は説明のために便宜的に振ったもので、東京・中部両本社と重複している字は省いています。

 

 

 36は、「祁」のへんを「ネ」の形にした拡張新字体。当時、朝日新聞では表外漢字も当用漢字にならった略字を使っていましたが、現在は「示」の形にしています。
 この字は表の●印でおわかりのように、大阪と西部の2本社でローカル字として保有していました。それぞれ、奈良県山辺郡「都祁村(つげむら)」、鹿児島県薩摩郡「祁答院町(けどういんちょう)」という自治体の表記に必要でした。
 都祁村は、書体帳の最初の版の前年である1955年に2村合併により誕生し、2005年に奈良市に編入されました。一方の祁答院町も、やはり1955年に3村の合併で誕生し、2004年に合併で薩摩川内市の一部となりました。どちらも、自治体としては「昭和の大合併から平成の大合併まで」存在していたわけです。

 37の「菟」は奈良県宇陀郡「菟田野町(うたのちょう)」のウ。書体帳の最初の版が発行された1956年に2町村の合併で誕生し、2006年に合併で宇陀市の一部となりました。
 ほかに「菟」を含む地名を探すと、京都府福知山市(旧天田郡三和町)の菟原(うばら)、和歌山県田辺市の伏菟野(ふどの)と、やはり関西です。
 なお、京都府宇治市の地名「とどう」は、「日本行政区画便覧」(日本加除出版)では「くさかんむりに兎」という字体になっていますが、パソコンで出しづらいこともあってか、「莵道」や「菟道」と表記されることが多いようです。この宇治の「とどう」も、当時のローカル字「菟」の用途に入っていたと思われます。

 38の「なべぶた(亠)に裴」は、中国人の姓に出てくる「裴」や、韓国・朝鮮人の姓「裵」の異体とされる字です。「裴」と「裵」はいずれも「衣」と「非」から構成される字ですが、書体帳に見えるこのローカル字は、一つでよいはずの「なべぶた」が二つついています。
 大阪本社のローカル字に入ったのは人名用なのでしょうが、具体的な用途は不明です。「裴」が書体帳の4本社共通で整備すべき4000字に含まれる一方、「裵」はそこに入っていないことを考えると、このローカル字は「裵」と設計すべきところを誤ったのかもしれません。
 現在の新聞製作システムでは「裴」と「裵」は保有していますが、このローカル字の形は常備していません。

 39の「門がまえに卞」は、一般的な漢和辞典には載っていない字ですが、諸橋大漢和には「閉」に同じ、という記載があります。39の字によく似た「閇」(門がまえに下)ならば「閉」の俗字として知られ、万葉仮名の「へ」として用いられた歴史をもっています。
 この「閇」を含む自治体名を探したところ、兵庫県加古郡「阿閇村(あえむら)」がありました。書体帳の少し後の1962年から町制を施行し、「播磨町」と名前が変わっています。
 地名以外では「反閇(へんばい)」という、陰陽師の呪法や能の所作の一つを指す言葉がありますが、ローカル字に入る理由にはなりにくいでしょう。
 いずれにしても、ローカル字が「閇」でなく「門がまえに卞」の形になっている理由はよくわかりません。

高層ビルに囲まれた大阪・靱公園=2013年11月撮影
 40の「靭」は「靱帯」や「強靱」のジン。しかし当時は「じん帯」「強じん」などと交ぜ書きをしていました。この字が大阪本社のローカル字に入ったのは、大阪の地名「靱(うつぼ)」のためでしょう。
 中之島にある朝日新聞大阪本社からしばらく南に歩いたところにある大阪市西区靱本町(うつぼほんまち)には、緑豊かな「靱公園」があります。かつては海産物市場でしたが、終戦後、進駐軍が接収し飛行場として使用していました。接収解除に公園として整備され、1955年に完成。書体帳の最初の版が作られる前年のことです。
 ローカル字に掲げられている「靭」はつくりが当用漢字の「刃」と同じ形ですが、2000年の国語審答申「表外漢字字体表」でつくりが「刄」の「靱」が印刷標準字体欄に掲げられたことから、現在では「靱」を使っています。

 41の「鵤」といえば、法隆寺の別名「鵤寺(いかるがでら=斑鳩寺とも)」です。このほか、兵庫県揖保郡太子町にも「鵤(いかるが)」という地名があり、やはり聖徳太子が創建したという「斑鳩寺」があります。

麩屋町通の標識=2014年10月撮影
 42の「麸」は、食べ物の「ふ」です。現在では康熙字典体の「麩」を使いますが、ローカル字は当時の朝日字体の方針に沿って「ばくにょう」が略されています。
 食べる「ふ」なら大阪管内に限りませんし、たいていは平仮名で書けば済みます。大阪管内でこの漢字がどうしても必要なものといえば、京都市内の「麩屋町通(ふやちょうどおり)」でしょう。通りの名前で場所を表す伝統のある京都では、欠かすことのできない字です。

 

■歴史とつながるローカル字たち

 

 いよいよ4本社目、九州と山口県を管轄する西部本社のローカル字です。ほかの3本社と重複しているものを除くと、ご覧の17字が掲げられています。

 

 

 まず43の「娃」は、鹿児島県揖宿郡「頴娃町(えいちょう)」に必要な字です。2007年に合併し、南九州市の一部となっています。

 44の「怡」はイと読み、主に漢字文化圏の女性名などで出てくる字ですが、ローカル字に入っているのは福岡県糸島郡にあった「怡土村(いとむら)」のためでしょう。1955年に前原町に編入され、市制施行で前原市になったあと、現在は糸島市の一部となっています。
 怡土村のあった「糸島郡」も、もとは「怡土郡」と「志摩郡」が明治時代に合併してできたものでした。

 45の「敞」はショウと読み、「たかい」「ひらけている」といった意味の字。ローカル字では、左上の点の向きが「ソ」になった新字体で設計されています。西部本社のローカル字だった理由はよくわかりませんが、「たかし」や「ひろし」などの人名に使われた字なので、特定の人名のために用意していたのかもしれません。

 46の「曻」は、「昇」の異体字です。通常、紙面ではこうした異体字は使わなかったはずですが、この字でないと支障のある人名などがあったのでしょうか。具体的な理由はわかりません。

 47の「柁」は、「舵」と同じく「船のかじ」を意味する字。「柁原(かじわら)」などの姓でも登場しますが、紙面にこの字が使われる例で最も多いのが、鹿児島県姶良市加治木町(かじきちょう=旧姶良郡加治木町)にある「柁城(だじょう)小学校」です。明治のはじめから続く伝統ある校名です。
 江戸後期につくられた「三国名勝図会」には、加治木の地名の由来として、《イザナギとイザナミがヒルコを流した船がここに漂着し、その舵から芽が出て大木となった。昔、木は燃えてしまったが再び芽を出した。村の名を加治木というのはこのためで、柁木または柁城とも書く》 という趣旨の記述があります。地元にとって「柁」は無くてはならない字でしょう。

 48の「栫」は、柴を立てたかこいを意味する字。熊本県八代郡氷川町(書体帳のころは合併前の宮原町)に「栫(かこい)」という地名があるほか、姓としても九州南部の地域面を中心に登場しています。

サッカー通なら「梠」の字はおなじみ=2013年4月15日付夕刊
 49の「梠」は屋根のひさしを意味する字ですが、植物のシュロ(棕櫚)を「棕梠」とも書きます。紙面に出てくるのは「興梠」(こうろき、こうろぎ)などの姓が大部分で、やはり宮崎や熊本などの地域が中心です。

 50の「木へんに青」は、「棈」のつくりを当用漢字に合わせて新字体にしたもので、現在は康熙字典体の「棈」を使っています。紙面では、鹿児島に多い姓「棈松(あべまつ)」などで登場します。

 51の「檍」は、主に宮崎版で出てくる字です。宮崎市に「檍(あおき)」という地域があり、小中学校や公共施設などにその名が見られます。この地域は、1932(昭和7)年に宮崎市に編入されるまでは宮崎郡「檍村(あおきむら)」でした。
 地名としての「檍」は、ほかに鹿児島県の曽於市や霧島市にもあります。

 52の「畩」は、鹿児島県曽於市の地名「畩ケ山(けさがやま)」に使われる国字。「畩ケ山」は姓としてもあります。
 九州地方では、かつて子どもの名付けにもこの字が使われていました。実際、地域面などに男女を問わず「畩」を含む名前が登場しています。戦後、西部本社がこの字をローカル字に採用したのは、地名や姓だけでなく、下の名前のためでもあったのでしょう。
 ただ、1948年以降は名付けの漢字制限で命名に用いることができなくなったため、現役世代や若者たちには、「畩」を含む名前はほとんど見られなくなっています。

 53の「瑛」が西部本社のローカル字だった理由はよく分かりません。現在では芸能人の名前でもよく見かけるポピュラーな字です。しかし名付けの漢字制限が始まった1948年以降、この字が1981年に人名用漢字に入るまでは、生まれた子の名に「瑛」を使うことはできませんでした。書体帳が作成されたのはその時期に当たります。
 地名でいうと、美しい景色で知られる北海道「美瑛町」がありますが、北海道を管轄する東京本社のローカル字には入っていませんでした。
 朝日新聞が北海道支社を創設し現地で印刷するようになったのは、書体帳の作成時期と重なる1959年。それまでは東京で印刷した新聞を1日遅れで届けていました。また、美瑛の美しさが全国的に知られるようになったのは、写真家の故・前田真三さんが1971年にこの風景と出会ってからのことで、書体帳から10年以上のちの話です。こうしたことから、書体帳作成時はまだ美瑛の「瑛」の活字の必要性がそれほど意識されていなかったのでしょう。

 54の「瓊」の用途として主に想定されたのは、長崎県の高校名「瓊浦(けいほ)」でしょう。瓊浦は長崎の美称「瓊の浦(たまのうら)」からくる言葉です。戦後の学制改革以前は県立の旧制「瓊浦中」がありましたが、現在の瓊浦高校は別の由来をもつ私立学校です。
 この字はほかに毛利方の僧「安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)」や「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」など、歴史上の用語でも登場します。どちらも、東日本よりは西日本でよく出てきそうな言葉です。

 55の「曽+瓦」は、鹿児島県の地名「甑島(こしきしま)」の字です。現在は薩摩川内市ですが、2004年の合併までは「上甑(かみこしき)」「下甑(しもこしき)」の村名にもこの字が使われていました。
 康熙字典体の「甑」は左が旧字体の「曾」ですが、書体帳では当用漢字の略し方にならって左側を「曽」と略していました。現在は康熙字典体を使っています。

 56の「絅」の用途として西部本社管内で考えられるのは、熊本県の女子校、私立「尚絅(しょうけい)」中学・高校です。東北の宮城県にも「尚絅女学院」(現在の尚絅学院)が当時からあったのですが、東京本社のローカル字には挙げられていません。

 57の「縢」は「縢(かが)る」という動詞にも使われる字ですが、新聞に出てくるのはほとんどが地名の「行縢(むかばき=脚絆の意)」です。特に、宮崎県延岡市の「行縢」(行縢山、行縢の滝、行縢町など)が大部分を占めています。
 今の広島県府中市(書体帳発行時は協和村)にも「行縢町」がありますが、延岡の行縢ほどには登場しないためか、広島を管内にもつ大阪本社のローカル字には入っていませんでした。
 西部本社のローカル字にあるのは当用漢字に合わせた新字体でしたが、現在は「月」の内側が点々、右上のソがハの形になった康熙字典体を使っています。

 58の「頴」は、43の「娃」のところで述べた鹿児島県の「頴娃町(えいちょう)」のほか、福岡県嘉穂郡「頴田町(かいたまち)」の表記に必要でした。頴田町は2006年に合併で飯塚市の一部になっています。
 この字は、左下が「示」の「頴」のほか、「禾」の形の「穎」という字体もあり、前者は後者の「俗字」とされています。ローカル字に入っているのは俗字ということになりますが、頴娃町や頴田町の正式表記と一致しています。
 2000年の国語審答申「表外漢字字体表」では、康熙字典が正字とする「穎」が印刷標準字体、俗字の「頴」は簡易慣用字体となりました。現在の紙面では、一般名詞や中国人名などには原則として「穎」を使いますが、国内の固有名詞はそれぞれの表記に従い「穎」と「頴」を使い分けています。

飫肥城の大手門前=2007年2月撮影
 59の「飫」は、宮崎県の地名「飫肥(おび)」のオ。かつては南那珂郡「飫肥町」でしたが、1950年に他の3町村との合併で日南市になりました。この地区は、飫肥城下の江戸時代の町並みが九州の小京都と呼ばれ、観光客の人気を集めています。
 ローカル字として載っているのは食へんを当用漢字に合わせて略した新字体ですが、現在は康熙字典体を使っています。

 

          ◇

 

 ここまで3回にわたって、書体帳第3版に掲げられた4本社のローカル字をひととおり眺めてきました。ローカル字として保有していた目的がはっきりしないものも一部ありますが、大部分は、管内地域の自治体や名所などを表記するために用意したと思われるものでした。
 近年JIS漢字の研究などを通じて一般にも知られるようになった「地域文字」の一端を示す資料が、半世紀以上も前からこうしたところにあったわけです。

(つづく)

(比留間直和)